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一乗谷城 〜戦国大名朝倉氏の居城・一乗谷城〜

◆戦国大名朝倉氏と一乗谷城
 朝倉氏の出自は但馬国養父郡朝倉(兵庫県養父市)にあって、「越州軍記」によると開化天皇、また「朝倉始末記」によれば孝徳天皇の後裔とされており、南北朝期に越前守護斯波高経に従い、南朝方の新田義貞軍との戦いで戦功をあげ越前に定着した。長禄2年(1458年)七代当主朝倉孝景(10代孝景と区別するために英林孝景ともいう)は、越前守護斯波義敏と越前守護代甲斐常治の間に勃発した長禄の戦いに乗じて、一族の反孝景派を滅ぼし、朝倉一族の当主として確固たる基盤を築いた。

 応仁元年(1467年)足利将軍家や畠山氏の家督相続争いから応仁・文明の乱が起きると、孝景は西軍に組みし、斯波義廉とともに目覚ましい活躍をみせ、能登の畠山義統、加賀の冨樫幸千代等と北陸での戦いを西軍優位に導いた。
 苦戦を強いられた東軍の細川勝元は朝倉孝景に寝返りを画策し、文明3年(1471)5月将軍足利義政を利用して孝景に御内書を発給させた。「越前国守護職事、任望申之旨訖。委細右京大夫可申候也(越前守護職は望みのままとし、詳細は細川勝元から知らせる)」との御内書を受けた孝景は東軍に寝返ると、緒戦は苦戦するも、その後は連勝を重ね越前守護斯波氏と守護代甲斐氏を追放し、戦国大名として越前の覇権を握った。

 朝倉氏の戦国大名化は最も早く、戦国の雄である北条氏の相模統一は永正3年(1516)、武田氏の甲斐統一が天文元年(1535)と較べても、朝倉氏の早さは特筆される。
 戦国大名の定義は、概ね「中央権力からの独立と領国の集権化、および被官・家臣の統制強化と共に知行高に応じた軍役を課す貫高制の確立」とされる。朝倉氏の場合、孝景は能力主義の人材登用、合戦における迷信の排除、軍備については質より量の優先など合理的な考えを壁書に示しているが、一方では「国支配は国主の心つかいに寄る」としており、家臣の知行高を貫高などで表示するのは「侍の高下あい見え候て曲無く候(おもしろくない)」として退けたとされ、早くに戦国大名となったが故の朝倉氏の限界が見て取れる。

 応仁・文明の乱で越前守護斯波氏を追放した孝景は、平野部にあった斯波氏の居城・黒丸城の東南約10kmに位置し、足羽川支流の一乗谷川沿いにあって三方を山に囲まれた細長い一乗谷(東西約500m、南北約3km)に館と共に背後の山(標高473m)に城を築いた。これが以後約100年間にわたって朝倉氏5代の居城となる一乗谷城である。
一乗谷の館跡
一乗谷の館跡


◆朝倉氏と一向一揆
 孝景がほぼ越前統一を手中にした頃、孝景のもとを訪ねてきたのが、比叡山延暦寺僧徒によって大谷本願寺を破却され、京を逃れた本願寺第8世・蓮如である。蓮如は孝景の許しを得て越前と加賀の国境付近の吉崎に道場(吉崎御坊)を建設すると、本願寺系浄土真宗の拠点として布教を開始した。こうして孝景が蓮如に北陸での布教を許したことが、後の朝倉氏にとって大きな遺恨を残すことになる。

 文明6年(1474)加賀で蜂起した本願寺門徒による一向一揆は、長享2年(1488)に加賀守護冨樫政親を滅ぼした。加賀から能登,越中に広がった一向一揆は永正3年(1506)3月本願寺第9世・実如の命を受けて越前の一向衆と呼応し、30万余という大軍をもって越前に攻め込んだ。朝倉氏10代当主孝景(宗滴)は1万1千の寡兵で九頭竜川で一向一揆を破ると、一向宗の本拠である吉崎御坊をはじめとする本願寺の末寺であった本覚寺,藤島超勝寺等の諸寺院を打ち壊し、一向宗への弾圧を加えた。朝倉氏と一向一揆との対立はその後約60年間の長きにわたって続く。

 10代孝景(宗滴)の跡を継いだ朝倉義景は、永禄11年(1568)第15代将軍足利義昭を奉じて近江に侵攻した織田信長との間で軍事的緊張が高まると、翌12年(1569)長年対立してきた本願寺と結び対信長戦への備えとした。
豊臣秀吉が寄進したと伝えられる館跡の唐門
豊臣秀吉が朝倉義景の善提を弔うために寄進したものと伝えられる唐門


◆織田政権と一乗谷城
 元亀元年(1570)4月越前に侵攻した信長によって、敦賀郡の疋田城手筒山城金ケ崎城を落とされ、まさに一乗谷に攻め込まれる直前、妹婿の浅井長政が信長に反旗を翻したことで織田軍は撤退。窮地を脱した義景は、攻勢に転じるべく朝倉景健を総大将として北近江に軍を送り、6月には浅井軍と共に織田・徳川連合軍と姉川を挟んで戦う(姉川の戦い)が激戦の末敗れた。

 元亀4年(1573)織田軍による小谷城攻めが開始され、浅井長政の要請を受けた義景は、自らが出陣し江越国境の柳ヶ瀬から木之本の地蔵山(現在の浄信寺)に軍を進めたが、嵐に乗じた織田軍の夜襲を受け朝倉軍は越前へと敗走。
義景は織田軍の追撃を振り切って一乗谷に帰陣するが、二度にわたる織田軍との敗戦で朝倉氏を見限った家臣達は四散。義景は朝倉景鏡の勧めに従って僅かの側近と共に大野郡に落ち延び再起を図ろうとするが、景鏡の裏切りにより大野郡の六坊賢松寺で自刃する。早くに戦国大名となりながらも一向一揆との戦いに疲弊し、家臣団の組織化、規律化を果たせなかった朝倉氏は、11代義景の死とともに滅び去った。

 その後、一乗谷城には信長から守護代を任じられた朝倉家旧臣の前田播磨守吉継(改名して桂田長俊)が入るが、天正2年(1574)地侍や本願寺門徒らの反乱によって桂田長俊は殺害され、越前は加賀一向一揆の領国となる。

 翌3年(1575)8月信長は10万余の大軍をもって越前に侵攻し、一乗谷城に楯籠もる一向一揆を制圧。信長から越前支配を任された柴田勝家は、谷間の要害である一乗谷よりも領国経営に適した平地に北之庄城(現在の福井市)を新たに築き一乗谷城は廃城となった。

 こうして越前支配の中心が北之庄に移ったことにより一乗谷の遺跡は破壊されることなく、戦国期の城下町の町並みが完全な形で残る貴重な中世城館跡として、国特別指定史跡となっています。一乗谷城へは朝倉氏館の背後から登ることができ、中腹から山頂に至るまでの至る所に朝倉氏時代の中世城郭の遺構を観ることができます。

一乗谷城の築かれている山
一乗谷城は館跡の背後の山に築かれている

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近江の城郭


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