獅子吼(ししく)城
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 城郭の概要
所在地:北杜市須玉町江草
別 名 :江草城
築 城 : −
初城主: −
区 分 :山城
遺 構 :堅堀,堀切,石積み
城 域 : −

 現地への案内
交通機関は車を利用
 県道23号線、孫女橋から旧道に入り、根古屋神社の東
 詳細位置はコチラ mapfan
 駐車場
 路上駐車
【訪 城】2005年8月
【撮 影】2005年8月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ★★
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

主曲輪下の石積み
主曲輪下の石積み

 現地の状況
 獅子吼城から甲信国境の信州峠まで約15km、信州峠を越えると佐久に至る。この街道は若神子から佐久に至る佐久往還(佐久甲州街道、現在の国道141号線)の裏街道として利用されていたものである。
 獅子吼城は、この裏街道を監視する拠点であり、佐久往還沿いの旭山砦や谷戸城と共に、甲信国境警備の要となる城である。
主曲輪
主曲輪

 根古屋神社の欅の木の横に獅子吼城の案内板がある。ここから登るのが本来の登城道であるが、根古屋神社の横、細い路を車で上れば、獅子吼城の東側に出る。
 山道を辿ると約20分ほどで山頂の主曲輪に出るが、この間、ガレ場状態の岩場が続くので、足下はしっかり固めて登りたい。この地山の石を利用して、斜面の至る所に石積みが見られる。勿論石垣と呼べるものではないが、甲斐にあってこうした石積みを見られるのは後年の甲府城をのぞけば、要害山城ぐらいで、じっくりと楽しみたい。
 おそらく、これら石積みは天正壬午の乱の際に積まれたものであろうが、積んだのは北条方か、それとも徳川か等と考えながら見て廻るのも面白い。
 山頂の主曲輪からは南方の眺望がきき、若神子城などを遠望することができる。
若神子城までは約5km、烽火を見ることが出来る限界に近い距離で、若神子城と獅子吼城の間には、もう1カ所の烽火台があった可能性も考えられる。
主曲輪からの眺望
主曲輪から南方の眺望


 城郭の歴史
 別名「江草城」、地元では城山と呼んでいる中世の山城。山頂の広く平坦な主郭(本丸)を中心に斜面には平らな石を積み上げた石垣と、それらを用いて区画した多数の曲輪。斜面を縦断する堅堀が配置されている。
 付近には湯戸、駒ヶ入、根古屋、堀、西の御所内(平)などの集落および地名がある。特に根古屋の地名は山城の城下町を意味する。

 平安時代、馬の産地であった。この地法に朝廷の直轄の牧が設置され、それを統括する牧監が置かれた場所ともいわれる。そして、塩川対岸の班山金山があったり、また江戸時代には関所が置かれるなど古来より重要な位置にある。
 城の東北にある見性寺の寺記に鎌倉時代の終わり元応2年(1320)5月4日の夜、この城では信田小右衛門実正・小太郎実高、親子とその家来が討ち死にしたとある。また、武田系譜に応永年間(1394〜1428)武田信満の三男・江草兵庫助信泰が居城したといわれ、見性寺には信泰の位牌と木像が安置されている。

 武田信玄の時代には烽火通信の中継地として重要な場所であったといわれ、塩川上流の「大渡の烽火台」、「比志城」、「前の山烽火台」、さらに甲信国境の信州峠、また、西方には中尾城、若神子城、大豆生田砦、能見城新府城などまで遠望できる。

 天正10年壬午(1583)3月、新羅三郎義光以来の名門武田氏は信玄没後10年をせずして織田信長により悲劇的な滅亡をとげた。
 その信長も6月、本能寺の変で明智光秀に殺された。この戦いを天正壬午の乱という。
 家康は韮崎の新府城に陣し、北条氏直は若神子に本陣を構え、小豆生田砦と獅子吼城にそれぞれ兵を配した。9月の初旬、津金衆・小尾衆など武田の遺臣達と服部半蔵率いる伊賀組とがこの城に夜襲をかけ落城させている。この戦いは家康の勝利が決定的なものになっただけでなく、甲州における戦国時代最後の合戦であった。
現地案内板より





観光
 須玉町歴史資料館は藤村式と呼ばれる旧津金学校校舎の建物を利用して、縄文時代から戦国時代までの文化財や歴史資料が展示されています。

津金歴史資料館


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