新府城
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 城郭の概要
所在地:韮崎市中田町中条上野
別 名 :府中城,舞鶴城
築 城 :天正9年(1581)
初城主:武田勝頼
区 分 :平山城
遺 構 :横堀,土塁
城 域 :400m×700m
     標高 522m
     比高 72m

国指定史跡

 現地への案内
交通機関は車を利用
韮崎から県道17号線を北上、JR中央線の新府駅から西へ約1km

詳細位置はコチラ
 駐車場
専用駐車場を利用 約30台

【訪 城】2001年9月,2002年8月,
      2004年8月
【撮 影】2004年8月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★★
普請 ★★★
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

新府城外堀の一部
新府城外堀の一部

 現地の状況
 新府城は釜無川の東岸、通称七里岩と称される、釜無川の河岸段丘上に築かれている。この河岸段丘は、韮崎市の東で合流する塩川が、約1.5kmほどの距離をおいて釜無川と平行に流れるため、須玉町若神子辺りまで帯状の台地形状を形成している。七里岩の要害地形と共にマクロ的に見ても「攻めるに難く、守るに易き」地形であると云える。

 新府城の東側を通る県道17号線(七里岩ライン)横の駐車場から石段を登ると、5分足らずで本丸に着く。
本来の登城道は南側を大手、北側を搦手として、大手からは武田特有の三日月堀と両袖の丸馬出から直線枡形を経て三の丸、更に二の丸から本丸に至る。この間、直線枡形と二の丸と本丸間の枡形構造の曲輪が見所である。
また、搦手側には鉄砲の射程距離を考慮して造られたものと云われる「出構」が約100mの間隔を置いて二つ設けられている。
この出構は幅の広い堀に突き出した曲輪で、搦手側の台地地形により防御戦線が延びる中、防御の拠点として搦手側の弱点を補っている。
 この新府城は、武田勝頼が真田安房守昌幸に命じて築城したとされるだけあって、曲輪配置などにも随所に工夫がみられる。


 城郭の歴史
 新府城は正式には新府中韮崎城といい、天正9年(1581)春、武田勝頼が躑躅ヶ崎館から甲斐府中として城地を七里岩南端韮崎の要害に武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。

 勝頼がこの地に築城を決意したのは織田信長の甲斐侵攻に備え韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期したことによる。
 築城工事は昼夜敢行で行われ、着工後約8ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も移ったので新府韮崎城と名付け、同年12月甲府からここに移り、新体制を引いた。


 しかし、戦局は日に悪化して翌年3月、勝頼は織田軍の侵攻を待たず自らこの城に火を放って退去するのもやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えた。
 廃墟と化したこの城も、同年6月本能寺の変で織田信長が滅び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うことになると、家康はこの城跡を修築して本陣とし、自軍に対して5倍の兵力を擁し若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き新府城の真価を発揮した。

 この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形を良く生かして築かれその城地の特長は城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西2基の出構を築き鉄砲陣地とした点で、従来の城郭には見ることのない斬新な工夫である。
新府城の立つ七里岩を甲州街道から望む
新府城の立つ七里岩を甲州街道から望む

 現存する主な遺構は頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、大手、三日月堀、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり北から東に堀が巡らされている。
 史跡指定地域は約20ヘクタールにおよぶ広大なものであるが、この外側には武将らの屋敷跡と伝えられる遺構、遺跡が散在している。
−現地案内板より−



観光
 近くには武田発祥の地・武田八幡宮願成寺。また、武田信義が築城した白山城などが見所。

 4月には新府桃の花見会、武田の里まつり、また10月には武田勝頼公新府入城まつりが催される。
 詳細は、韮崎市観光協会




新府城と武田勝頼
 武田勝頼は、武田3代の築城技術を結集した新府城を、なぜ韮崎に築いたのか。その必然性を戦国期甲斐の人びとの生活や軍事を通して考える。



山梨県韮崎市教育委員会 (編集)



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