長門 萩城(別名指月城)
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 城郭の概要
所在地:萩市堀内
別 名 :指月山城
築 城 :慶長9年(1604)
初城主:毛利輝元
区 分 :平城
遺 構 :石垣,天守台,堀
 現地への案内
交通機関は車を利用
詳細位置はコチラ 
 駐車場
有料駐車場を利用

【訪 城】2008年8月
【撮 影】2008年8月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り



本丸と指月山
本丸と指月山

 現地の状況
 萩城は萩市街地の北西 橋本川と松本川が日本海に注ぎ込む河口付近、標高143mの指月山の麓に築城された平城である。
 現在は本丸と二の丸、および堀の一部が残されており、本丸大手口の土橋左手に天守台石垣が見える。これには少々ビックリさせられた。
 通常、天守は虎口から奥まった位置に建てられるものであるが、萩城の天守は幅20mほどの水堀を介しているというものの、天守を攻めてくれといわんばかりの縄張りである。
 また、36万石といえば譜代井伊彦根藩と石高は同格であるが、彦根城と比べても萩城の規模はいかにも小さい。

 これは関ヶ原の合戦後、120万石から防長36万石9千石に減封された毛利氏が存続を図るため、徳川幕府に対し反抗心のないことを示す方策としてとられたものではないだろうか。

 こうした幕府への配慮は毛利氏の重臣である吉川氏の居城・岩国城にもみられる。関ヶ原の合戦後、吉川広家は月山富田城から岩国城主となった。
 元和元年(1615)一国一城令が発布された際、吉川家はれっきとした7万石の大名で一国一城令の対象外であったが、広家は毛利領国なにあるということから、自主的に岩国城を廃して麓に陣屋構えの館を構えている。

 幕府への配慮が痛いほどに分かる毛利氏の居城・萩城であるが、背後の指月山山頂には石垣造りの詰丸が築かれ、枡形虎口を配した二の丸と本丸を置き、れっきとした山城の体裁が整えられ、あきらかに合戦時の本丸は指月山山頂の詰丸で、麓の天守は隅櫓的な存在である。こうしたところにも中国地方の覇者・毛利氏のしたたかさが窺える。

 現在の萩城一帯は指月公園として整備され、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国の重要文化財)が現存し、三の丸には高杉晋作誕生地や木戸孝允旧宅、および松下村塾などなど、幕末に活躍した著名人ゆかりの屋敷跡などがあちらこちらにあり萩市内は見所いっぱいである。

本丸天守台と内堀
本丸天守台と内堀

 城郭の歴史
 萩城は関ヶ原の合戦以後、山陽、山陰の8カ国120万石の広島城から、防長36万石へ転封となった毛利家14代の居城である。

 関ヶ原の合戦では西軍の総大将として担ぎ出された毛利輝元であったが、主家を裏切り東軍に内通していた一族の吉川広家、および西軍を裏切り東軍勝利のきっかけをつくった小早川隆景などの功績を評価され、所領安泰との約束が取り付けられた。
しかし、戦後家康は一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利氏を周防・長門2国へ転封した。

 周防・長門36万石と減封された輝元は、慶長9年(1604)萩に築城を開始し、慶長13年(1607)に萩城は完成したとされる。萩城は五層五階の天守閣をもち二層目には大入母屋を配し、最上階は高欄と廻縁のある望楼型の天守であった。
なお、本丸の背後にある指月山(標高143m)には二層の櫓を備え、詰の城としていた。

 幕末の動乱の元治元年(1864)、維新の先頭を走る毛利長州藩は、萩が維新の行動を起こすには不便であることから、幕府に無断で山口に藩庁を移した。
同年、池田屋事件、禁門の変で打撃を受けた長州藩に対し、幕府は第一次長州征伐軍を送り、長州は幕府へ降伏した。
 その後、完成したばかりの山口城を一部破却して、毛利敬親・元徳父子は萩城へ退いたが、慶応2年(1866年)、土佐藩の坂本龍馬を仲介として、薩摩藩との政治的・軍事的な同盟である薩長同盟を結ぶと、再び山口に藩庁を移し山口藩が成立した。

天守台からみる本丸と内堀
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