紀伊 和歌山城
HOME西日本の城郭
 城郭の概要
所在地:和歌山市1番丁
別 名 :虎伏城、竹垣城
築 城 :天正18年(1585 )
初城主:豊臣秀長
区 分 :平城
遺 構 :復元天守,堀,石垣,櫓
      比高 30m
 現地への案内
交通機関は車を利用
大手門、岡口門周辺の有料駐車場を利用
詳細位置はコチラ 

 駐車場
【訪 城】1997年,2008年2月
【撮 影】2008年2月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り



本丸御殿から見る天守閣
本丸御殿からみる天守閣

 現地の状況
 和歌山城は第8代将軍・徳川吉宗の居城であり、見所のひとつに野面積み、打ち込みはぎ、切り込みはぎなど多様な石積みがみられる点である。中でも「青石」と呼ばれる緑泥片岩を用いた石積みは、趣のある石垣となっている。

 打ち込みはぎは和泉砂岩が多く用いられており浅野時代の構築とされる。また、切り込みはぎは江戸時代のもので、徳川吉宗の時に改築されたとされる。

 和歌山城内の石垣には刻印を打たれた石が多くある。通常、石への刻印は城が天下普請をされる際に普請を担当した大名が、作業時に起こりえるトラブルなどを避けるために打たれることが多い。
しかし、和歌山城は天下普請ではなく、どうして刻印を打たれた石が多くあるのか分かっていない。

 天守はズングリとした印象を受ける。これは一階部分が10間×10.5間あり、本来なら五層以上の天守が建つ広さでありながら三層の天守が建てられていることに起因する。
徳川頼宣が造営した天守は弘化4年(1847)に落雷で焼失し、その後再建計画が立てられて時には五層の天守であったが、幕府の意向を配慮して、五層の天守台に三層の天守が建てたことからも、和歌山城天守閣がズングリしていることがうなずける。

 和歌山城の入口は「岡口門」、門外に馬術の稽古場のあった「追廻門」、一の橋の架かる「大手門」、「不明門址」および「勘定門址」があり、岡口門は重要文化財に指定され、追廻門は旧態のまま残っている。

 城郭の歴史
 和歌山城といえば、徳川の御三家・紀州藩の居城であるが、その創築は天正13年(1585))に遡る。
天正13年、根来雑賀党をはじめとする紀州の勢力に対し、6万の兵を起こした秀吉は、紀ノ川の河口吹上の峰に紀州攻めの本拠をおき、城郭を造営して若山城とした。

 紀州を制圧した秀吉は、その支配を弟・秀長に委ねた。当時の秀長は大和郡山城にあって、桑山重晴を城代として若山城の整備を進めた。その築城を担当したのが、築城の名手とされる藤堂高虎である。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの功により紀州国37万石は浅野幸長に与えられた。元和5年(1619)浅野氏は安芸の国に所領替えとなり、紀州には家康の十子・頼宣が55万石5千石で入城し、新宮、田辺、松坂に支城が置かれた。

 虎伏山頂にそびえる大天守(三層三階)は、小天守(二層二階)、台所、乾櫓(二層二階)、二の門(同)、二の門(楠門)を多門櫓で結んだ連立式天守と呼ばれる様式である。

 天守閣などの建物は昭和20年の空襲で消失、昭和33年に鉄筋コンクリートの天守閣として復原(木造、コンクリートを問わず、外観が元通りに建てられてものをいう)された。

本丸一之門からみる天守閣
本丸一之門からみる天守閣


和歌山城の縄張り図
和歌山城の縄張り

和歌山城をもっと紹介
内堀
内堀


一の橋大手門の石垣
一の橋大手門の石垣


重要文化財に指定されている岡口門
重要文化財に指定されている岡口門
続き櫓
大天守と乾櫓を結ぶ多聞櫓


表坂の石垣
表坂の石垣


青石(緑泥片岩)で積まれた石垣
青石(緑泥片岩)で積まれた石垣


小天守と天守閣
小天守と天守閣

HOME西日本の城郭

近江の城郭