遠江 横須賀城
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 城郭の概要
所在地:小笠郡大須町
別 名 :松尾城
築 城 :天正6年〜8年(1578〜1580)
初城主:大須賀安高
区 分 :平城 
遺 構 :土塁,空堀,石垣,堀
面 積 :
 −

国指定史跡

 現地への案内
交通機関は車を利用
国道150号線から横須賀地区へ
 詳細位置はコチラmapfan
 駐車場
・駐車:駐車場5〜6台
【訪 城】2000年10月
【撮 影】2000年10月,2008年8月


遺構の保存状態 ★★☆
遺構確認し易さ ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
の数の多い方が良い(または、激しい)


西ノ丸から本丸一帯の石垣
西の丸から本丸一帯の石垣

 現地の状況
 横須賀城は高天神城の西方約5kmに位置し、国道150号線から東に入った県道41号線沿いの民家の間から、いきなり石垣が現れる。

 比高差30mほどの丘陵地を利用して、本丸を中心に西の丸、二の丸,三の丸、および北の丸が配置され、南側斜面は総石垣造りである。角の取れた丸い石で積まれた石垣は異様で、一瞬ニセモノかと戸惑ってしまう。
 この横須賀城が築城された当時、国道150号線の通る南側は遠州灘の入江になっていたとされ、海辺の石を利用した石垣である。こうした石垣は河岸段丘に築かれた鯰江城(滋賀県東近江市鯰江町)にも見られる。
こうした石垣は、石が丸いだけに積み方にもそれなりの工夫がなされているとのだろうが、やはり「野面積み」というのであろうか。

 築城されている丘陵地は、変化に乏しいなだらかな地形で、さして城を築くのに適した地形とは思えないが、築城当時は南側の入江が水堀と共に二重堀を形成していたという。また、北側背後の松尾山一帯は土塁なども残り、築城当時本丸ではなかったかと推定されているだけに、丘陵地斜面は崖状をなし、比高差30mほどの平山城の弱点を補っている。
 なお、当時二重堀をなしていたとされる水堀のほとんど埋め立てられ、三日月堀の形状をした堀の一部が残るだけである。

 築城から400年を経過した現在では、あまりにも激しい状況変化のため、天正6年(1578)当時、横須賀城が徳川方の最前線の城として築城された緊張感を感じることができないが、よく整備されており気軽に楽しめる城である。
なお、北西約300mにある大須賀氏の菩提寺・撰要寺には不開門が移築されている。


 城郭の歴史
 天正2年(1574)遠江進攻を企てる甲斐の武田勝頼は、「死を伏せて3年間は喪に服せ」との信玄の遺言を破って軍を起こし、「高天神を制するものは、遠江を制す」といわれた高天神城を攻略した。
当時、遠江における武田方の拠点は諏訪原城小山城で、これらの城は大井川の西岸に位置していたが、高天神城を落としたことで、遠江の徳川領内に深くくさびを打ち込むことに成功した。

 高天神城を武田勝頼に落とされた徳川家康は、居城・浜松城と高天神城のほぼ中間にあたる馬伏塚城を改修し大須賀康高を入れ、武田軍の西方進出を阻止すると共に高天神城への牽制とした。

 天正3年(1575)長篠の戦いで織田軍と共に武田軍を撃破した勢いをかって、徳川家康は天正6年(1578)高天神城の周囲に獅子ヶ鼻砦など6つの付城(六砦)を築くと共に、高天神城攻略の拠点として大須賀康高に命じて築いたのが横須賀城である。
 以後、横須賀城は、天正9年(1581)に高天神城を落とすまで徳川方の重要な戦略拠点として機能した。

 その後、横須賀城には大須賀氏2代、渡瀬氏、有馬氏、再び大須賀氏が入城し、松平氏、井上氏、本多氏とめまぐるしく城主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封し、以後7代続き、明治維新を迎えて廃城となり、明治6年には建物は取り壊された。


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松尾山の土塁
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