三方原の戦いはどこで行われたか
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三方原の戦いの通説

 現在、三方原の戦いが行われたのは三方原台地の北端、祝田坂付近であるというのが通説となっています。
これは、昭和33年に高柳光壽(光寿)氏が著書 「三方原合戦」の中で、“戦いは三方原の北端で行われた” としてからだといわれています。(富田日出雄氏 著書・「三方原古戦場を考える」より)

 高柳光壽氏が「三方原合戦」の中で、戦いは三方原の北端で行われた(以下、北端説)とするまでは、明治35年に旧陸軍参謀本部が「日本戦史・三方原役」のなかで示した小豆餅付近と考えられていました。
 しかし、高柳光壽氏の北端説が出てからは、昭和46年発刊の浜松市史も、「戦いは三方原台地の北端で行われた」と記述し、現在では “戦いは北端で行われた” とするのが通説となっています。

 こうした、北端説に対し、富田日出雄氏は著書・「三方原古戦場を考える」の中で、論鋒鋭く、異を唱えておられます。興味のある方は、富田日出雄氏著書・「三方原古戦場を考える」を読んでみてください。
なお、この書籍は1990年に出版されたもので、年月が経っていること、および出版部数も少なかったためか、古本屋などでも入手し難く、浜松市立図書館、および国立図書館などで閲覧するしかないようです。

北端説に異を唱えるを富田日出雄氏の主張

 富田日出雄氏は高柳光壽氏の北端説に対し、いろんな角度から疑問を投げかけられていますが、ここでは簡単にご紹介したいと思います。


−以下、富田日出雄氏 著書・「三方原古戦場を考える」より抜粋して引用−

 三方原の戦いが三方原台地の北端で行われたとする高柳光寿氏の根拠は、「三河物語」に家康が浜松より三里に及んで打って出で合戦をしようと言ったこと、および「浜松御在城記」にも、浜松より三里御出勢とあり、この距離は祝田の坂上と一致する

 「三河物語」は、かの有名な大久保彦左衛門が書き残したものであるが、この書は元和8年(1622)に完成したとされているが、その後、寛永18年(1639)に彦左衛門が80歳で死ぬまで手元に置いて加筆したものが自筆本の最終稿であるといわれている。
 しかし、三方原の戦い当時、彦左衛門は13歳で未だ在陣しておらず、「三河物語」の記述は、その後50年経過してから彼が少年時代に兄や親族から聞かされた記憶をもとに書いたものであり、その地理認識が的確なものであるかどうか、はなはだ疑問に思わざる得ない。

 また、「浜松御在城記」については、「三河物語」から60年、合戦より110年ほど後の成立と推定されているが、文中に「奮記ニ相見」とか、「大久保彦左衛門忠教ノ記ニ見タリ」、「信玄全書ニ見タリ」とあるように、諸文献を引用したりして記述されている。

 三河物語の「浜松より三里に及で打出させ給ひて、御合戦を可被成と仰せけれバ」とあること、「敵を祝田ゑ半分過も引きおろさせてきってかゝらせ給ふならバ、やすやすときりかたせ給ハン物を、はやりすぎて、はやくかゝらせ給ひしゆへに・・・・・・・」 と書かれていることにより、三里と祝田を結びつけて、合戦は祝田の坂上付近で開始されたとするものであるが、この文章からは開戦の地が祝田の坂上であると特定することはできないのである。

・祝田坂の位置 mapfan

−三方原の戦いにおける富田日出雄氏の疑問点を抜粋−
【疑問点1】
 高柳光壽氏が「三方原合戦」の中でも、武田勢が祝田の坂を半分以上下がったところで攻撃すべきだということについて、「論議はまことにその通りであるが、これは一方的な論議であって、信玄としては、決してそんな隊形で敵の攻撃を受けるようなことをしなかったであろう」 と批判している通り、信玄でなくとも、敵を背後にして坂を下る武将はいないであろう。
 また、武田勢が坂を下ると考えて、家康が武田軍を追従したとすれば、これもまた甘すぎる予測で、戦術、戦略以前の問題である。

【疑問点2】
 天竜川を渡河して約15kmの行程を経て、三方原台地に上がった軍勢を、大休止の後とはいえ北に6km歩かせてから反転し、1時間あまりの間に再び12kmも戦闘を繰り広げながら進撃したとする推理は、無理を感じざる得ない。

【疑問点3】
 祝田の坂上で戦闘が始まったとするならば、織田信長からの援将・平手汎秀が戦死した伊場(浜松市東伊場1丁目)は浜松城よりさらに2km近く南であり、その距離はあまりにも遠過ぎはしないか。

・伊場(浜松市東伊場1丁目)の位置 mapfan

−三方原の戦いの場所について富田日出雄氏の考え−

 以上が富田日出雄氏が北端説に異を唱える内容ですが、では富田日出雄氏は三方原の戦いはどこで行われたと考えておられるのか。
その場所は、以下の文章から読み取ることが出来ます。

 「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」。それは信玄の旗印であり、彼が銘とした孫子の一節である。大菩薩から三方原台地の一角にあがった信玄は、魚鱗の陣形を整えると、合代島から約15kmの行軍をしてきた兵士に、来るべき決戦に備えて、十分な休息を与えていたのだ。そして軍扇を握りしめ、床机にどっかと腰をおろした信玄の姿は、まさに動かざること山の如しであったに違いない。



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関連リンク
浜松城
犀ヶ崖資料館
浜松市鹿谷町25-10
TEL 053-472-8383

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犀ヶ崖資料館
 犀ヶ崖は、三方原の戦いで敗れ、敗走する徳川軍を追ってきた武田軍が夜営しているところを浜松城を出た徳川軍が夜襲をかけた戦場として知られています。

 資料館は、この犀ヶ崖の一角に建てられており、三方原の戦いに関する資料が展示されています。

 この資料館で一番面白いのは、戦いの場所について、明治35年の旧陸軍参謀本部が示した小豆餅付近説と、高柳光壽氏の北端説の資料が入り混じり展示されていることです。(^^)



【疑問点2】
武田軍の行軍距離について
天竜川を渡河して15km・・・・・・
武田軍が22日に合代島で天竜川を渡河し、三方原台地に上がるまでの距離をさしている。

大休止の後、北に6km・・・・・・・・
大菩薩で大休止を入れた武田軍が追分を経て、祝田坂付近まで行軍した距離。

1時間あまりの間に再び12kmも戦闘を・・・・・
祝田坂近くで戦闘が始まり、総崩れとなって浜松城へ逃げ帰る徳川軍を追って、犀ヶ崖まで武田軍が追跡した距離。


関連書籍
武田信玄の戦略―三方原の戦(高柳光壽著)

三方原古戦場を考える(富田日出雄著)

日本戦史2・三方原・長篠の役旧参謀本部編纂)