三方原の古戦場を訪ねる
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武田軍が三方原台地に上がった欠下坂

 秋葉街道を南下した武田軍は大菩薩の欠下から三方原台地に上がり、大菩薩で休息をとったとされる。
武田軍が台地にあがった欠下というのは、有玉中の信号を西に入ると有玉団地の入口の欠下橋を渡ってすぐ右折、台地を迂回する形で数百m走ったところから台地にあがるルートである。
 この坂の途中に「欠下坂」の標識がある。現在の坂道は道幅も広く、新たに造られたもので、当時武田軍があがったとされる坂道は、欠下坂の標識から100mほど下がったところの道幅3mほどの道である。
地元の古老の話では、この旧道が信玄街道だという。

欠下坂の標識
欠下坂の標識


欠下坂の旧道
信玄街道といわれる欠下坂の旧道


【所在地】 浜松市有玉台4丁目
詳細はコチラ mapfan

【訪問日】 2003年10月,2006年8月

【現地を訪れて】
 欠下橋から台地上までは、比高差約50m。武田軍が三方原台地に上った当時は、道といっても道らしい道ではなく、道を切り開きながら上ったために、信玄が造った道ということで「信玄街道」とい名が付けられたのではないだろうか。

 欠下は浜松城から約5〜6km、天竜川沿いに南下してきた信玄が三方原台地に上がったのは、なぜ欠下だったのか。三方原の戦いを考えるとき、この素朴な疑問は重要な意味を持っているように思う。

 通説通り、浜松城の徳川家康が信玄に誘い出されたとすれば、浜松城から5〜6kmという距離は、浜松城にいる徳川家康に「信玄の狙いは何か」と考えさせ、籠城かそれとも野戦か迷いを生じさせる絶妙の距離であり、この距離感こそが、老練といわれる武田信玄が幾多の戦いの中で掴んだ戦感だったのではないだろうか。

 一方、武田軍が道を切り開いてまで、この欠下から三方原台地に上がった理由を考えるとき、このとき既に信玄には病の兆候が出ており、西上をあきらめて甲府への岐路として台地上の姫街道、もしくは金指街道を選んでいたとしたら、家康は病の信玄、若しくは信玄に替わって指揮をとった信玄の部下(おそらくは内藤昌豊)に敗れたことになる。



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