備中 庭瀬城
HOME西日本の城郭
 城郭の概要
所在地:岡山市庭瀬
別 名 : -
築 城 :慶長5年(1600)
初城主:戸川逵安
区 分 :平城
遺 構 :曲輪、石垣、堀
 現地への案内
交通機関は車を利用
空地を利用
詳細位置はコチラ 

 駐車場
【訪 城】2008年8月
【撮 影】2008年8月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り



庭瀬城
庭瀬城

 現地の状況
 庭瀬城はJR庭瀬駅の西、足守川が幾筋にも分かれて流れるほぼ中央部、周囲を水路の囲まれた小さな浮島に築かれており、庭瀬城へは水路と水路の間を縫うようにつけられた細い道を通ることになる。

 そもそも岡山平野は吉井川と旭川がつくり、庭瀬から金光一帯に広がる平地も連島南部の平地も、ともに高梁川がつくったとされる。
 天正10年(1582)当時、瀬戸内海に浮かぶ児島(現在の児島半島)と本土との間に20余りの島々が点在した「吉備の穴海」と呼ばれる浅海であった。
 元和4年(1618)に西阿知新田・東阿知新田の開発により児島は陸続きとなって、「吉備の穴海」は、静かな入海「児島湾」に変貌した。

 従って、三村元親によって庭瀬の地に城が築かれた当時は、高梁川河口のデルタ地帯に築かれていたであろうとは、現在の状況などからも容易に想像がつく。

庭瀬城遠景
庭瀬城遠景

 城郭の歴史
 庭瀬城は三村元親によって永禄2年(1559)に築城されたものである。
元亀2年(1571)三村元親は備中松山城の庄高資を攻め滅ぼし、毛利氏の備中進出の先兵としての働きをした。

 元亀4年(1573年)毛利輝元は信長に京を追われ備後の鞆に落ち延びてきた将軍足利義昭を擁立し信長との対立姿勢を明確にし、同時に今まで敵対していた宇喜多氏と手を握った。
三村元親は父・家親を殺された宇喜多氏と結んだ毛利氏から離反して信長についた。

 天正2年(1574)小早川隆景率いる8万の軍勢に攻め込まれ、備中松山城は落城し、元親は自刃に追い込まれた。
 この時に庭瀬城や撫川城も毛利氏の支配下になり、毛利・宇喜多両氏の境目の城として毛利氏配下の井上有景が入城した。
 天正10年(1582)本能寺の変の後、毛利氏と羽柴氏の和睦の結果、庭瀬城は羽柴方の宇喜多氏の配するところとなり、境目の城としての役割を終えた庭瀬城は廃城となる。

 慶長5年(1600)主家宇喜多家の意向に反して東軍に属した戸川達安は、戦功を挙げ、備中の都宇・賀陽両郡29000石を与えられて撫川城に入城し、庭瀬城を取り込む形で城の拡張をおこなった。

 延宝7年(1679)戸川家無嗣断絶、以後20年は倉敷代官所の支配下に置かれ、元禄12年(1699)板倉重高が入城し、以降明治まで板倉氏が続いたが、明治2年(1869)に廃城となった。


HOME西日本の城郭

近江の城郭