備中 松山城
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 城郭の概要
所在地:高梁市内山下
別 名 :高梁城
築 城 :延応2年(1240)
初城主:秋庭重信
区 分 :平城
遺 構 :現存天守閣、現存二重櫓,現存土塀、石垣、井戸,堀切
城 域:140m×240m
 現地への案内
交通機関は車を利用
専用駐車場を利用
詳細位置はコチラ 

 駐車場
【訪 城】2001年,2008年8月
【撮 影】2008年8月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り



二層三階の現存天守閣
二層三階の現存天守閣

 現地の状況
 ふいご峠から約20分ほどで小松山の山頂付近に築かれた白亜の土塀が出迎えてくれる。見上げると峻険な崖状斜面に巨石を組み合わせた石垣、あるいは山頂の狭い平地部分を最大限に利用して築かれた縄張り。また眼下の眺望など、高所に築かれた近世城郭の姿にしばし見入ってしまう。

 二層三階の天守閣は唐破風の曲線美が強調され、女性的な雰囲気を漂わせる。平成15年からの保存修理を終えた松山城は、まさに化粧直しをした天守閣である。
 本丸の背後には巨石を櫓台として利用して築かれた二重櫓(国指定重要文化財)が背後の守りを固めている。

 標高480mの臥牛山は、大松山、天神の丸、小松山、および前山の四つの峰からなり、小松山の天守から背後の尾根を登ると約20分で大松山の大松山城に着く。
 大松山城は中世城郭の姿をとどめ、曲輪が確認できる程度であるが、その位置関係から松山城の背後を固める城郭の一部として利用されていたことは容易に想像できる。

 なお、平成の大改修がおこなわれた後、3月から12月までの土日祭日は麓の駐車場からふいご峠駐車場まではシャトルバスを利用することになった。バスは15〜20分間隔で運行されているので不便は感じない。

 松山城を訪れる際は山頂の城域だけでなく、山麓にある根小屋の武家屋敷や小堀遠州が造園した頼久寺の日本庭園なども併せて廻ると城と城下町の関係などがよく判る。


松山城の本丸全景
松山城本丸の全景

 城郭の歴史
 松山城は標高478mの臥牛山の山頂付近に築かれ、大和・高取城美濃・岩村城などと日本三大山城に数えられている。
 また松山城の天守閣は、国宝に指定されている松本城彦根城、あるいは姫路城などと共に現存する天守閣としても知られている。

 松山城の創築は延応2年(1240)、備中の地頭・秋庭重信が臥牛山の四峰のひとつである大松山に築城したのを始まりとされる。

 戦国期には山陰と山陽を結ぶ伯備往来の中ほどに位置し、東西の主要街道も交差する位置にあることから備中の有力武将、あるいは山陰の尼子氏、安芸の毛利氏、および備前の宇喜多氏が争奪戦を繰り返した歴史をもつ。

 天正2年(1574)三村氏の在城時に起きた備中兵乱の際には、“砦二十一丸”と呼ばれた出丸が築かれたとされ、臥牛山全域が要塞化していたことが窺える。

  三村氏が滅んだ後は毛利氏の東方進出の拠点として、また慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、毛利氏が防長2ヶ国に転封されてからも備中国奉行として赴任した小堀正次・政一(後の小堀遠州)父子によって修改築がなされるなど備中の要衝としての役割を担っていた。以後、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主が替わり明治維新を迎えた。

 なお、松山城が現在の城郭規模になるのは関ヶ原の合戦後に入城した小堀正次・政一と天和元年(1681)から改修に着手した水谷勝宗の時代だとされる。
現存する二重櫓
現存する二重櫓(重要文化財)

松山城をもっと紹介

三の丸から見上げる二の丸
三の丸から見上げる二の丸


天守閣内部
天守閣内部


二重櫓
二重櫓


二の丸鉄門跡の土塀
二の丸鉄門跡の土塀


天守閣内部
天守閣内部


堀切に掛けられた木橋
堀切にかけられた木橋
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