備中 高松城
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 城郭の概要
所在地:岡山市高松
別 名 : -
築 城 :元亀〜天正年間
初城主:石川久孝
区 分 :平城
遺 構 :曲輪
 現地への案内
交通機関は車を利用
専用駐車場を利用
詳細位置はコチラ 

 駐車場
【訪 城】2001年,2008年8月
【撮 影】2008年8月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り



本丸横の蓮池に自生する蓮
本丸横の蓮池に自生する蓮

 現地の状況
 高松城址から南東へ約500m、蛙が鼻築堤跡が高松城水攻め史跡公園として整備されている。蛙が鼻築堤は現在も高さ約2mほどの堤が残されている。
 当時の水攻めの築堤は基底部20〜24m、上幅10〜12m、高さ7〜8mだったとされ、千原九右衛門勝則の設計によって、わずか十数日で完成したと伝えられている。また、高松城址から北西約1.5kmの足守駅下手にも堤が残されている。

 高松城址は昭和57年に岡山市によって沼の復元がなされ、地下に眠っていた蓮が再び花をつけるようになったという。古来より本丸と二の丸の間に蓮池の地名が残されており、自生した蓮は“宗治蓮”として訪れる人たちを楽しませている。

 本丸には清水宗治の首塚と共に、宗治の世辞の句、「浮き世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」の句碑が建てられている。
また、城址近くの高松山・妙玄院には清水宗治公自刃之址の石碑が建てられている。


本丸にある宗治の首塚

 城郭の歴史
 備中高松城の築城時期は、はっきりしないが元亀〜天正年間頃に備中松山城・城主三村元親の重臣石川左衛門尉久孝によって築城された。
天正3年(1573)の備中兵乱で石川氏が主家三村氏とともに毛利氏に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となった。

 天正10年(1582)3月、天目山(山梨県甲州市大和町)に甲斐武田氏を滅ぼした織田信長は西進を本格化させ、毛利氏と対峙。
 毛利氏は備中境に境目7城(高松城、宮地山城、冠山城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城)を築き、織田方に備えた。

 天正10年5月、織田信長の命を受けた羽柴秀吉は3万の大軍をもって、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々に攻略し、備中高松城を包囲。
 沼城の高松城を攻めあぐねた秀吉は、高松城の周囲約2.6kmに堤防を築くと、折からの梅雨で増水していた足守川の水を引き入れ水攻めとした。籠城1ヶ月余り、高松城内の食料がつきた6月2日、本能寺の変が起きた。

 秀吉は毛利氏との講和を急ぎ、高松城主・清水宗治の切腹と高松城の開城を条件に休戦を成立させ、高松城を開城させた。
その後秀吉軍は備中高松から姫路城まで2日間で駆け戻り、姫路城で軍備の点検に1日費やし、翌々日には摂津・尼崎城へ進行した。
 こうして備中高松から尼崎まで約180kmを5日間で駆け戻った秀吉軍は、天王山で明智光秀との戦い(山崎の合戦)に望むことになる。これが世に言う“中国大返し”である。

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