吉岡城
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【城郭の概要】
所在地:下伊那郡下條村陽皐
別 名 : −
築 城 :室町時代
初城主:下條氏
区 分 :丘城
遺 構 :横堀,堀切,土塁
城 域 :450m×150m

主曲輪西側の堀切
主曲輪西側の堀切

【現地への案内】
国道151号線下條村、吉岡城址公園
詳細位置はコチラ 

【駐車場城址公園駐車場を利用 7〜8台
【訪 城】2002年8月
【撮 影】2002年8月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 吉岡城は北方を北の沢川、南方を南の沢川に挟まれた丘陵地にあり、天然の要害地形を利用して、最高部に主曲輪をおき、比較的斜度のきつい西側尾根には小曲輪群、なだらかな東側丘陵地には二の曲輪、屋敷等を配している。

 現在では国道151号線が主曲輪の中を貫いて走り、主曲輪は吉岡城址公園として整備されている。国道151号線を挟んで、東側に一の堀、更には二の曲輪。西側には二の堀を挟んで出曲輪がある。二の堀は堀底幅が3m、深さ6〜7m、出曲輪西側の三の掘りも山城の堀らしく高低差があり見事である。
 三の堀から西側の尾根には、小さな曲輪を残す以外は宅地化され、四の堀等は消失している。

【城郭の歴史】
 吉岡城は文明7年(1475)室町時代中期、下條氏6代康氏によって築城され、以後7代 120年間本拠地とした城である。

 城郭は下條氏の勢力拡大に伴って拡張し完成された。形状は連郭式平山城で、東西約700m、南北約30〜200mにおよび、中世後期の城としては規模も大きく、その特徴を有している。城跡は部分的には埋没し崩されているが、当時の輪郭を十分に伝えている。下條氏は甲斐源氏小笠原氏の庶流である。

 遺構は空堀による四つの曲輪と城下町,馬場,弓場等からなり、枡形,上町,屋敷町,大手,大手裏,竪町,横町等の地名と井戸,四脚門が残っている。
 
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・初代頼氏:室町時代初期 小笠原氏の麾下として大沢(古城)に来たり、この地方を支配したが、5代にしてその系は途絶えた。

・6代康氏:松本小笠原政康の子 文明2年(1470)下條家を継ぐ居城を大沢から吉岡に移し根拠地とした下條氏中興の祖である。 文亀3年(1503)没

・7代家氏:信濃守護小笠原氏の代官として治世を安定させ中央文化を召集し、重文大山田神社社殿などを今日にその偉業を伝えている、 天文3年(1534)没

・8代時氏:松本小笠原氏と謀り、松尾小笠原氏、新野の間氏を攻略し、伊那谷西南部一帯を支配した。 弘治元年(1555)没

・9代信氏:武田信玄の妹を妻に迎え、信玄の伊那先方衆をして武功を立てるが天正10年(1583)2月、織田信長の信濃攻略に際し、家老の謀反にあい、長男信正(10代)と共に三河に逃れたが彼の地に没した。

・11代頼安:信氏の二男、天正10年6月2日、本能寺の変に乗じ徳川家康の助成を得て吉岡城を奪回したが天正12年正月、松尾城において謀殺された。

・12代牛千代:信正の長男、家康に従属したが家中の内紛や謀反が家康の詮議を招き、天正15年(1587)3月改易となり、下條氏は事実上滅亡し、一族郎党は諸方の大名家に仕え四散するところとなった。その後吉岡城は幕府領の代官等にあてられていたが、寛永年間、旗本知久氏によって取り壊された。
下條村教育委員会

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