海ノ口(うみのくち)城
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【城郭の概要】
所在地:南佐久郡南牧村海ノ口字大芝
別 名 :鳥井城
築 城 :戦国時代
初城主:平賀源心か
区 分 :山城
遺 構 :堀切
城 域 :300m×50m
      標高 1250m
      比高 210m


村指定史跡


主曲輪背後の堀切
主曲輪背後の堀切

【現地への案内】
国道146号線、佐久海の口駅の北100mの辺りから東に入り、標識に従う
詳細はコチラ 

【駐車場林道の終点に1台可
【訪 城】2005年8月
【撮 影】2005年8月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 山梨県側から国道146号線を北上すると、佐久海ノ口駅の北100mの辺りに海ノ口城の案内板がある。この標識を見落とすと探すのは辛い。なお、国道146号線を南下した場合に案内板があったかどうかは不明。
 国道141号線は佐久甲州街道に沿って造られたもので、この佐久甲州街道は古来より、佐久往還、あるいは甲州往還とも呼ばれ、甲斐の韮崎から若神子(須玉)を経由して平沢峠を越えて信濃に入り、千曲川沿いに岩村田宿(長野県佐久市)に至る道である。この佐久往還道を押さえるために築かれたのが海ノ口城や海尻城、下畑城等である。
 鬱蒼とした樹林の中を標識に従って約30分ほど登ると鳥井峠に出る。この鳥井峠から右手に登るとすぐに、海ノ口城の小堀切を確認出来る。
主曲輪と屏風岩
主曲輪と屏風岩

 鳥井峠からは二つの小堀切、小曲輪を経て主曲輪に至る。主曲輪は30m×20mほどの小さな曲輪で、背後には屏風岩と云われる岩場を控え、この岩場を利用した大堀切は、斜度、深さにおいても圧巻である。
 この日はあいにくの雨、山頂付近からの遠望は利かなかったが、天気が良ければ佐久往還が手に取るように見えるはずである。

【城郭の歴史】
 平賀源信の出城で別名鳥井城とも云う。平賀氏は現在の佐久市平賀の平賀城城主であった。永正・大永年間の頃から甲斐の武田氏としばしば兵を交えた。文安・宝徳頃から、この城に拠っていた。

 天文5年武田信虎は兵7,8千人を率い、この城を攻めた。平賀氏は3千人にて守り、落城の気配なく、更に大雪降りしきり、やむを得ず一旦甲斐へ帰陣することになった。この時、父・信虎と共に海ノ口城攻略に加わっていた武田晴信(信玄)は隊列の殿にいて、父の許しを得て、兵300人を率いて引き返し、この城を奇襲した。

 一方、平賀源信に武田氏の帰陣するを知り、守りを解き、兵を家に返してくつろいでいた。そこへ武田氏の奇襲にあい、剛胆70人力という源信も、虚を突かれて、あえなく戦死し、海ノ口城は落ちたのである。武田信玄はこの時、若干16歳で初陣の手柄をたてた。
南牧村教育委員会  現地案内板より

 なお、上記現地案内板の説明は 「海ノ口城址に関する歴史と伝説」 として、紹介されている。武田信玄が初陣の際に海の口城を攻略した話は「甲陽軍艦」にも記載されているが、多少疑問視されているところから、「歴史と伝説」と云った曖昧な表現が使われているようである。


武田軍の信濃侵攻

 甲斐武田の信濃進攻は享禄元年(1528)9月武田信虎が諏訪郡へ侵入、諏訪上社の諏訪頼満・頼隆父子と神戸、境川付近で戦ったのを最初とし、天文5年(1536)11月には佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。この戦いが初陣だった晴信(後の信玄)は知略で海ノ口城を落とす。
 天文9年(1540)5月には、信虎が佐久郡の城を十数城落とし前山城を築き、天文10年(1541)5月信虎は村上義清、諏訪頼重等と結び海野棟綱を攻め、海野平に海野棟綱を破る。同年6月、晴信は父・信虎を駿河今川家に退隠させ、武田の総帥として信濃攻略に向けて全力を傾けていく。
 この頃の信濃は小笠原長時が守護職として任じられていたが、その勢力は北信濃までは及ばず、北信濃は村上義清を筆頭として豪族が入り乱れ、諸豪族は外敵である信玄に対し、協力して立ち向かっていく。
 天文10年頃から北信濃の諸豪族が村上義清を頼ったことから、諏訪の諏訪頼重に加えて、北信濃の村上義清、中・南信濃の小笠原長時と武田信玄との戦いが本格化する。
 天文11年(1542)信玄は一転して伊那の藤沢頼親,小笠原長時と戦い、天文14年(1545)4月に諏訪頼継の高遠城を攻め落とし、高遠城を拠点にして箕輪城(福与城)の藤沢頼親を攻め、天文15年頃には諏訪を制圧する。
 天文16年(1547)佐久郡・内山城の大井貞清に出仕を促し、大井貞清親子は甲府に出仕したのをきっかけに、8月には佐久郡の志賀城を攻め、笠原清繁を破る。翌天文17年(1548)8月佐久郡の田口城を小山田出羽守に攻めさせ、田口良能に加勢した北信濃の諸豪族をことごとく討ち取り、9月には佐久郡を制圧する。享禄元年(1528)に諏訪に侵攻してから諏訪・佐久郡を制圧したのは、信虎・信玄の2代にわたって実に23年を要した。
 天文20年(1551)3月村上義清、小笠原長時は連合して深志城(松本城)の奪還を図るが、信玄は5月には真田幸隆をもって砥石城を落とす。
 この間、武田軍は天文17年(1548)2月、小県の上田原に村上義清と戦い敗れ、天文19年(1550)9月には小県の砥石城を攻めて敗れる(砥石崩れ)等、村上義清を相手に2度の苦い敗戦を経験するが、天文21年(1552)1月には諏訪頼継を甲府に出仕、自刃させ、4月には村上義清の居城・葛尾城を落とし、5月に桔梗原で小笠原長時を破る。そして8月には村上義清が籠もる塩田城を落とす。その後、村上義清は越後の上杉謙信に援を求め、天文22年(1553)から宿命の対決とされる川中島の戦いへと発展していく。一方、天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略した武田晴信は、伊那をほぼ支配下においた。

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