湯川城(枡形城,原の城) |
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【城郭の概要】 所在地:茅野市北山湯川 別 名 : − 築 城 : − 初城主:武田氏 区 分 :平城 遺 構 :横堀 城 域 : − 標高 965m 比高 15m |
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![]() 【現地への案内】 国道152号線湯川地区・功徳寺の南 枡形城の詳細位置はコチラ ![]() 原の城は枡形城の約300m南 【駐車場】路上駐車 【訪 城】2003年5月 【撮 影】2003年5月 ![]()
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【現地の状況】 湯川城は枡形城と原の城の総称で、大門峠の麓、湯川地区の南、滝の湯川と渋川に挟まれた台地上に位置し、大門峠に通じる大門街道筋に築城されている。この大門街道(国道152号線)はこの地域では棒道として知られており、大門峠を越えると小県、川中島に通じる交通の要衝である。 湯川城の築城時期はハッキリしないが、武田晴信が諏訪氏を滅ぼし、小県,川中島方面に侵攻するにあたって棒道筋に築いたものと考えられている。 湯川城は枡形城と原の城からなり、原の城は南側からは非高差のある台地上の南端に築かれ、約200mほど北に枡形城が築かれているが、現在では一面の畑地となり、ここに城が築城されていたことを窺い知るのは原の城の空堀と、枡形城の南側に堀として利用された砦の沢だけである。かつては枡形城には堀と土塁、丸馬出が残されていたが、昭和44年の耕地整理で消失してしまっている。現地の人の話では当時枡形城には高さ3mほどの土塁があったという。 台地上に築かれ、広い地域だけに北信濃侵攻をめざした武田軍の兵站基地と考えるのが妥当ではないか。それにしても、自然地形を利用し三方を川と自然谷に囲まれた枡形城の地形を観ていると、小諸城などと共通した武田の築城思想がハッキリと認識できる。
【城郭の歴史】 湯川城は南北の渋川と滝の湯川の間の高台にあった広い城で、枡形城、原ノ城を含む。両城の間には1kmの深い堀があり砦の沢と呼ばれ土塁の跡も残る。 天文年間、武田信玄の築城といわれ、大門峠の棒道筋で佐久方面への進攻や川中島出兵等の拠点として利用された。 |
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