上原城
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【城郭の概要】
所在地:茅野市上原
別 名 :古城
築 城 : −
初城主:諏訪氏
区 分 :山城
遺 構 :竪堀,土塁,堀切
城 域 : −
     標高 978m
     比高 133m(板垣平から)

県指定史跡

曲輪周囲に巡らされた空堀の一部
曲輪周囲に巡らされた空堀の一部

【現地への案内】
国道20号線葛井神社入口から永明寺山公園を目当てに
詳細位置はコチラ 

【駐車場上原城駐車場を利用 約10台可
【訪 城】2003年5月
【撮 影】2003年5月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 上原城諏訪氏館跡(板垣平)を経て、上原城横まで車で乗り付けることが出来る。上原城諏訪氏館跡は、天文11年(1542)7月武田晴信(信玄)により諏訪領主・諏訪頼重が滅ぼされて以降、武田氏の諏訪郡代(初代・板垣信方)の館が建てられ、天正10年(1582)3月までの約40年間、武田氏の諏訪統治の拠点となった所で、今日でもこの地籍は字名を「板垣平」と呼ばれている。

 上原城の曲輪配置は主曲輪を中心として2方に延びる支尾根に曲輪を配置した簡単な縄張りで、武田軍により若干手が入れられている程度で諏訪氏時代の縄張りが色濃く残っている中世山城である。現在の上原城として保存されている地域以外にも、畝状竪堀が残っており、当時の上原城の城域が相当広かったことを窺わせる。

       縄張り図


【城郭の歴史】
 上原城跡は諏訪盆地を一望する金毘羅山頂(標高978m)にある。その遺構としては主郭・土塁・二の郭・三の郭・空掘・物見石等があり、城山の中腹の小家板垣平(おおよそ1ha)には居館跡がある。
主曲輪とはなれ山との間の堀切
堀切

この城は北は永明寺山を背に、北西に桑原城、東に鬼場城をひかえ、前方南には上川や宮川を隔てて干沢城に対し、諏訪上社(本宮前宮)を見下ろした中世の典型的な山城である。
 築城の年代は明らかでないが、室町時代の後期、文正元年(1466)頃より諏訪惣領家当主・信満がこの城の中腹に館を構え、上原郷に城下町をつくった。その後、諏訪氏は信満−政満−頼満−頼隆−頼重の5代70余年にわたり諏訪地方を統治したが、天文11年(1542)7月甲斐の武田晴信(信玄)によって滅ぼされ惣領家諏訪氏は滅亡した。 
 以後、上原城とその館は武田氏の諏訪地方統治と信濃攻略の基地として天正10年(1582)武田氏の滅亡まで約40年間続いた。この城跡は昭和46年5月27日、長野県史跡に指定された。なお、三の郭にある金毘羅神社は頼岳寺18世尊応が文化2年(1805)に頼岳寺鎮守神ろして、四国の讃岐より金毘羅大権現を勧請してこの地に祀ったものである。
長野県教育委員会 茅野市教育委員会  現地案内板より



武田軍の信濃侵攻

 甲斐武田の信濃進攻は享禄元年(1528)9月武田信虎が諏訪郡へ侵入、諏訪上社の諏訪頼満・頼隆父子と神戸、境川付近で戦ったのを最初とし、天文5年(1536)11月には佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。この戦いが初陣だった晴信(後の信玄)は知略で海ノ口城を落とす。
 天文9年(1540)5月には、信虎が佐久郡の城を十数城落とし前山城を築き、天文10年(1541)5月信虎は村上義清、諏訪頼重等と結び海野棟綱を攻め、海野平に海野棟綱を破る。同年6月、晴信は父・信虎を駿河今川家に退隠させ、武田の総帥として信濃攻略に向けて全力を傾けていく。
 この頃の信濃は小笠原長時が守護職として任じられていたが、その勢力は北信濃までは及ばず、北信濃は村上義清を筆頭として豪族が入り乱れ、諸豪族は外敵である信玄に対し、協力して立ち向かっていく。
 天文10年頃から北信濃の諸豪族が村上義清を頼ったことから、諏訪の諏訪頼重に加えて、北信濃の村上義清、中・南信濃の小笠原長時と武田信玄との戦いが本格化する。
 天文11年(1542)信玄は一転して伊那の藤沢頼親,小笠原長時と戦い、天文14年(1545)4月に諏訪頼継の高遠城を攻め落とし、高遠城を拠点にして箕輪城(福与城)の藤沢頼親を攻め、天文15年頃には諏訪を制圧する。
 天文16年(1547)佐久郡・内山城の大井貞清に出仕を促し、大井貞清親子は甲府に出仕したのをきっかけに、8月には佐久郡の志賀城を攻め、笠原清繁を破る。翌天文17年(1548)8月佐久郡の田口城を小山田出羽守に攻めさせ、田口良能に加勢した北信濃の諸豪族をことごとく討ち取り、9月には佐久郡を制圧する。享禄元年(1528)に諏訪に侵攻してから諏訪・佐久郡を制圧したのは、信虎・信玄の2代にわたって実に23年を要した。
 天文20年(1551)3月村上義清、小笠原長時は連合して深志城(松本城)の奪還を図るが、信玄は5月には真田幸隆をもって砥石城を落とす。
 この間、武田軍は天文17年(1548)2月、小県の上田原に村上義清と戦い敗れ、天文19年(1550)9月には小県の砥石城を攻めて敗れる(砥石崩れ)等、村上義清を相手に2度の苦い敗戦を経験するが、天文21年(1552)1月には諏訪頼継を甲府に出仕、自刃させ、4月には村上義清の居城・葛尾城を落とし、5月に桔梗原で小笠原長時を破る。そして8月には村上義清が籠もる塩田城を落とす。その後、村上義清は越後の上杉謙信に援を求め、天文22年(1553)から宿命の対決とされる川中島の戦いへと発展していく。一方、天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略した武田晴信は、伊那をほぼ支配下においた。
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