上田城
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【城郭の概要】
所在地:上田市二の丸
別 名 :尼ヶ淵城,伊勢崎城,真田城,松尾城
築 城 :天正11年(1583)
初城主:真田昌幸
区 分 :平城
遺 構 :空堀,水堀,土塁,石垣,櫓
城 域 :本丸84m×100m

国指定史跡

本丸西虎口の櫓門
本丸西虎口の櫓門

【現地への案内】
国道18号線上田市街、花園信号南入る、JR上田駅北西500m
【駐車場専用駐車場
【訪 城】2002年5月
【撮 影】2002年5月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 上田市街地にあり、上田城址公園として本丸と本丸,二の丸が保存されており、本丸周囲には水堀も残っている。
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに先立ち、徳川の大軍に攻められながらも落ちなかったひとつの理由が城の南側に廻ると垣間見ることが出来る。
南側からみる上田城は千曲川の河岸段丘上に築城されており、現在でこそ千曲川は300〜400m南を流れているが当時はすぐ横を流れていたことは容易に想像がつく。
 こうした河岸段丘上に築城されるのは、真田昌幸,曽根昌世が普請奉行を務めた武田の新府城(山梨県韮崎市)などと同じ思想であり、選地に関しては小諸城(長野県小諸市)等と共に武田流築城術の流れをくんでいると云える。
復元された西隅櫓
西隅櫓

本丸水堀の外周には空堀,土塁なども残り、復元された櫓などと共にたっぷりと楽しめる。当時は市営球場や陸上競技場等も城域として取り込んでいたようで、この辺りを観ることで当時の地形をおおよそ想像することが出来る。

【真田氏の上田城築城】
 真田氏はいつまで真田郷を本拠としていたかは不明であるが、天正10年(1582)頃までは戸石城を本拠としていたと考えられており、真田氏は佐久・小県から北条の勢力を駆逐し、上杉の北信濃への牽制も含めて天正11年(1583)に居城を上田に移したものと考えられている。

【城郭の歴史】
 上田城は真田幸村(信繁)の父真田昌幸によって天正13年(1585)には一応の完成をみたものと考えられている。この上田城はまもなく天下にその名を知られるようになった。それは、この上田城に拠った真田氏が二度にわたって徳川大軍の攻撃を受け、みごとに撃退してしまったからである。
最初の合戦は天正13年に行われた。攻め寄せた徳川勢は七千余、迎え撃つ真田勢は二千人弱であった。しかし、真田氏の巧妙な戦術によって徳川軍は思わぬ大敗となり死者を千三百人余もだした。これに対して真田氏の死者は四十人ほどであったという。
 二度目の戦いは慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに際してのものであった。関ヶ原へ向かう途中、上田へ押し寄せた徳川秀忠軍は三万八千人という大軍、これに対し昌幸・幸村父子の率いる上田城はわずか二千五百人ほどであった。しかし、この時も徳川勢は真田城を攻めあぐね、この地に数日間も釘付けにされただけに終わり、関ヶ原での決戦に遅れるという大失態を演ずることになる。
千曲川河岸段丘上に築城された西隅櫓
西隅櫓
 上田城は地方の小城であった。石垣も少なく、一見したところ要害堅固な城とも見えない。しかし実際は周囲の河川や城下町を含めた全体がきわめて優れた構造となっていたことが、現在学術的研究によって明らかになってきている。全国に数多い近世城郭の中で二度も実戦を経験し、しかも常にこのような輝かしい戦果を挙げた城はほかに見ることが出来ない。
 上田城はその後、徳川軍の手で破却されたが、真田氏にかわって上田城に入った仙石氏によって復興された。寛永3年(1626)この時復興された上田城は真田氏時代そのままであったとみてよく、仙石氏の後、松平氏の世となってもほとんど変化はなかった。
 廃藩置県後、明治7年上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。
この際、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎は明治12年、松平神社(現真田神社)創建にあたり本丸南側の土地を神社用として寄付、明治26年には残りの土地を遊園地用として寄付した。こさが真田城跡の公園化の第一歩となった。現在、三の丸地域は変化しているが本丸、二の丸には土塁,城跡などがあり、かつ本丸の三基の隅櫓は昔の姿を留めている。

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