戸石城
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【城郭の概要】
所在地:上田市上野字伊勢山
別 名 :砥石城,伊勢崎城
築 城 : −
初城主: −
区 分 :山城
遺 構 :土塁,堀切,石垣
城 域 :400m×50m
     標高 791m


虎口と石積み
本城南尾根の虎口と石積み

【現地への案内】
国道144号線伊勢山町で標識に従い左折
詳細位置はコチラ 

【駐車場麓の空地に2〜3台
【訪 城】2002年5月
【撮 影】2002年5月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 戸石城は村上義清の本城・葛尾城(埴科郡坂城町)の支城と考えられており、天文17年(1548)、塩尻峠の合戦で小笠原長時を破った武田信玄は、続いて天文19年(1550)に小笠原長時の居城・林城を落とし、村上義清が北信濃で高梨政頼と対陣している隙を衝いて戸石城を攻撃したが、落とすことが出来ず、撤退する途中を高梨政頼と和睦した村上義清の攻撃を受けて敗北を喫した。これが後に云う「武田の戸石崩れ」で、その舞台となったところが、この戸石城である。
縄張り図


 麓の空地に車を止めて、10分ほども登ると小さな峠に出る。ここに左手米山城、右手戸石城の案内板が建てられてる。戸石城はここから更に傾斜を増す斜面を10分ほど登ったところにある。
戸石城自体は小さな城域で、ここより北の尾根に続く本城と呼ばれるところが主要部である。 戸石城は尾根続きの本城,枡形城と城を連ねているが、こうした城をひとつの城域と見るのが妥当である。
こうした中で、戸石城は尾根の南端にあり、北端の枡形城とともに本城の見張り台的な役割を担っていたと考えられる。
 山頂の本城・本郭から尾根の南側に曲輪が階段状に築かれているが、防御施設といえば、尾根の南端と北端に堀切が施されているだけで、山の峻険さによった中世山城であり、この峻険さが武田軍を撃退した最大の要因であろう。
枡形城からの眺望は実によく、真田氏居館や真田氏本城を望むことが出来る。

尾根上に切られた堀切
尾根上の堀切

【城郭の歴史】
 この城は東太郎山の一支脈が神川に沿って南方に突出している高い尾根に構築され、本城を中心に北に枡形城、南に戸石城、西南に米山城を配した堅固な連郭式山城で、総称して戸石城と呼ぶ。

【本城】
 戸石城全域で最も広大で、最上段の本郭から南へ二の郭、三の郭と続き、その東下または東南方に四の郭、三日月形郭、帯郭等郭群の遺構をよくとどめている、本城の東南は小さな谷で、これを登ると両側には小段郭は麓まで幾重にも続いており、登城口(大手)とみられている。
【枡形城】
 北方最高所標高800mにあって自然の山頂を利用している。郭の西方入口に4平方mの枡形があるのでこの名が付いた。郭は長方形で手前に半月形の段郭がある。
【戸石城】
 本城の南に連絡しており、北下りの鞍部に幅9mの深い堀切がある。本郭は方20mの削平台形部郭で周囲の展望は実によい。
 戸石城は村上,真田氏が戦略上重要視し、また重要な役割を果たした城である。規模が大きく4要害を2体とし構築し、しかも居館としても用いられた極めて特色のある重要な史跡である。
長野県教育委員会  上田市教育委員会


武田軍の信濃侵攻

 甲斐武田の信濃進攻は享禄元年(1528)9月武田信虎が諏訪郡へ侵入、諏訪上社の諏訪頼満・頼隆父子と神戸、境川付近で戦ったのを最初とし、天文5年(1536)11月には佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。この戦いが初陣だった晴信(後の信玄)は知略で海ノ口城を落とす。
 天文9年(1540)5月には、信虎が佐久郡の城を十数城落とし前山城を築き、天文10年(1541)5月信虎は村上義清、諏訪頼重等と結び海野棟綱を攻め、海野平に海野棟綱を破る。同年6月、晴信は父・信虎を駿河今川家に退隠させ、武田の総帥として信濃攻略に向けて全力を傾けていく。
 この頃の信濃は小笠原長時が守護職として任じられていたが、その勢力は北信濃までは及ばず、北信濃は村上義清を筆頭として豪族が入り乱れ、諸豪族は外敵である信玄に対し、協力して立ち向かっていく。
 天文10年頃から北信濃の諸豪族が村上義清を頼ったことから、諏訪の諏訪頼重に加えて、北信濃の村上義清、中・南信濃の小笠原長時と武田信玄との戦いが本格化する。
 天文11年(1542)信玄は一転して伊那の藤沢頼親,小笠原長時と戦い、天文14年(1545)4月に諏訪頼継の高遠城を攻め落とし、高遠城を拠点にして箕輪城(福与城)の藤沢頼親を攻め、天文15年頃には諏訪を制圧する。
 天文16年(1547)佐久郡・内山城の大井貞清に出仕を促し、大井貞清親子は甲府に出仕したのをきっかけに、8月には佐久郡の志賀城を攻め、笠原清繁を破る。翌天文17年(1548)8月佐久郡の田口城を小山田出羽守に攻めさせ、田口良能に加勢した北信濃の諸豪族をことごとく討ち取り、9月には佐久郡を制圧する。享禄元年(1528)に諏訪に侵攻してから諏訪・佐久郡を制圧したのは、信虎・信玄の2代にわたって実に23年を要した。
 天文20年(1551)3月村上義清、小笠原長時は連合して深志城(松本城)の奪還を図るが、信玄は5月には真田幸隆をもって砥石城を落とす。
 この間、武田軍は天文17年(1548)2月、小県の上田原に村上義清と戦い敗れ、天文19年(1550)9月には小県の砥石城を攻めて敗れる(砥石崩れ)等、村上義清を相手に2度の苦い敗戦を経験するが、天文21年(1552)1月には諏訪頼継を甲府に出仕、自刃させ、4月には村上義清の居城・葛尾城を落とし、5月に桔梗原で小笠原長時を破る。そして8月には村上義清が籠もる塩田城を落とす。その後、村上義清は越後の上杉謙信に援を求め、天文22年(1553)から宿命の対決とされる川中島の戦いへと発展していく。一方、天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略した武田晴信は、伊那をほぼ支配下においた。


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