天正寺仁科氏居館
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【城郭の概要】
所在地:大町市大町字北原
別 名 : −
築 城 :鎌倉時代
初城主:仁科氏
区 分 :館
遺 構 :土塁,堀
城 域 :170m×120m



天正寺北側の堀
天正寺北側の堀

【現地への案内】
国道147号線十日町信号を西へ約200m
詳細位置はコチラ 

【駐車場天正寺駐車場を利用
【訪 城】2004年10月
【撮 影】2004年10月

評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★☆☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 藤原時代から戦国時代にかけて約500年間安曇地方に勢力をもっていた仁科氏は館之内居館から、この天正寺へと居館を移した。なお、大町市平字森にある森城は、詰の城と考えられている。

 天正寺と西隣りにある大町西小学校が仁科館跡とさ、現在も天正寺の北側に幅4〜5mの堀跡が約30mに渡って残っている。
この堀は昭和57年の発掘調査の結果、東西約186m、南北約120mの規模で幅は11m、深さ3mであったことが確認されてる。また、居館の北側を流れる御所川から水を引き入れ、水堀としていたことも確認されている。

 大町西小学校の敷地内にも水路が幾つか残り、天正寺山門あたりにも堀跡とも推測出来る地形が残っているが定かではない。なお、天正寺の薬医門型式の山門は元禄元年(1688)に寄進されたもので、大町市有形文化財に指定されている。
 地形的には北側堀と天正寺山門辺りでは高低差約1mほどで、なだらかな傾斜に築かれていたことが推測される。
 なお、この天正寺は仁科盛政の死後、家臣達によって建てられたもので、青龍山天正寺の名前は、盛政の法名である青龍をとって山号とし、当時の年号である天正をとって院号としたとされる。

【城郭の歴史】
 天文年間(1532〜1554)北信濃に進出した武田信玄と村上義清,上杉謙信との戦いの中で、仁科盛政も武田軍に従軍して佐久、小県地方に転戦したが、留守居役の家臣達が上杉謙信の誘いにより天正寺館、館之内、森城にて武田氏に反旗を翻したことによって、仁科盛政は甲斐にて殺され、500年にわたって続いた安曇地方の名族仁科氏は滅ぶ。
その後、信玄は安曇地方を押さえるため、五男・春清に仁科家の跡目を継がせ、仁科五郎盛信と名乗らせた。
 仁科頃盛信は天正10年、高遠城を織田信長,信忠に攻められ壮絶な最期を遂げたその人である。

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