高遠城
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【城郭の概要】
所在地:上伊那郡高遠町東高遠
別 名 :兜山城,甲山城
築 城 : −
初城主: −
区 分 :平山城
遺 構 :空掘,土塁,石垣
城 域 :500m×400m
     標高 800m
     比高 50m

国指定史跡

本丸周囲の空堀
本丸周囲の空堀

【現地への案内】
国道152号線、高遠町城址公園
詳細位置はコチラ 

【駐車場専用駐車場
【訪 城】2000年7月,2001年10月
【撮 影】2000年7月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★★
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 高遠の地は、北は杖突街道(国道152号線)を経由して諏訪に至り、西は伊那に出て天竜川沿いの三州街道から三河、南は青崩峠を経て遠江佐久間に至る要衝の地にある。
 高遠城はこうした要衝の高遠を見下ろす兜山に築かれ、兜山は北を流れる藤沢川と、南を流れる三峰川との合流点にあり、三方を渓谷に囲まれた要害地形をなしている。
高遠城の模擬追手門(縮小サイズ)
模擬追手門

 天文11年(1542)諏訪頼重を上原城に攻め諏訪進出を果たした武田晴信(信玄)は、天文14年(1545)に諏訪頼継が居城としていた高遠城を攻略。この要衝・要害の高遠に目をつけた晴信は、築城の名手・山本勘助に命じて改修して以後、高遠城は南信濃における武田の戦略拠点として位置づけられた。

 天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略した武田晴信は、伊那をほぼ支配下におく。 元亀年間に武田軍の侵略の矛先は、北信濃,上野から、遠江,三河、および美濃に変わり、高遠城は再び戦略拠点としての役割を担うようになる。
 天正10年(1582)3月、仁科五郎盛信の籠もる高遠城は、織田信忠率いる大軍に攻められ落城する。高遠城の落城を知った武田勝頼は、新府城を捨て岩殿城(山梨県大月町)に向うが、追手の追求厳しく天目山で自刃する。
 天目山での勝頼の自刃によって名門甲斐源氏・武田氏は滅ぶことになるが、高遠城の落城は、武田氏滅亡の9日前のことであり、武田信玄が甲斐から信濃に進出して以降、武田氏が滅亡するまで、武田氏の侵略史とともにあった城と云える。

 こうした歴史を持ち、縄張りは山本勘助と聞けば期待度は高くなるが、現在の高遠城は法憧院曲輪,二の丸および、本丸と本丸周辺に空堀等の遺構が残されているだけで、城としての全体像つかみ難く少々がっかりする。
 現在の高遠城は山本勘助の城、あるいは南信濃における武田の拠点の城としてではなく、ここで玉砕した仁科五郎盛信の哀史と、二の丸〜本丸間に掛けられた朱塗りの桜雲橋をバックにした桜(コヒガンザクラ)の名所としての知名度のほうが高いようである。
本丸の石垣
本丸の石垣
 高遠城へは車で本丸下のグランドまで上がることが出来る。このグランドが勘助曲輪で、築城した山本勘助の名前が付けられている。この勘助曲輪はひとつの曲輪としては非常に大きなものであるが、三の丸はこの勘助曲輪の5〜6倍の規模があったとされ、こうしたことからも当時の高遠城の規模が窺いしれる。

 今日、高遠城を訪れる大部分の人は勘助曲輪方面から本丸に入るが、当時の大手口は本丸の北東、搦手口は本丸の南東にあって、高遠の町を背にした形で東向きの城であったことを知る人は少ない。尤もこうした縄張りを現地からは窺い知ることは出来ないが、高遠城が今でも「戦国の城」としての姿を残しているのが、その要害地形である。高遠城の北、杖突街道(国道152号線)から藤沢川を挟んで観る高遠城、あるいは南側を流れる三峰川の渓谷を観れば、さすがは築城の名手・山本勘助の城と頷くことは間違いない。なお、高遠城の南西2kmの五郎山には、仁科五郎盛信の墓がある。

 仁科五郎盛信は武田信玄の五男で、天文年間(1532〜1554)北信濃に進出した武田信玄と村上義清,上杉謙信との戦いの中で、仁科盛政も武田軍に従軍して佐久、小県地方に転戦した が、留守居役の家臣達が上杉謙信の誘いにより天正寺館館之内森城にて武田氏に反旗を翻したことによって、仁科盛政は甲斐にて殺され、五男・春清が仁科家の跡目を継いで仁科五郎盛信と名乗った。仁科氏の居城は森城(長野県大町市)

【城郭の歴史】
 天正10年(1582)2月織田信長は信玄亡き、あとの武田氏を一挙に滅ぼすために伊那口から長男信忠の率いる5万の大軍を送り込んだ。この大軍に恐れをなした伊那谷の城主は城を捨てて逃げ、或いは降伏して道案内をするなど織田軍は刀に血を塗らずして高遠に迫った。
 36歳の青年城主仁科五郎盛信(信玄の5男)は降伏を勧める僧の耳を切り落として3千の手兵をもって敢然としてこの大軍を迎え撃った。要害堅固をもって響いた城であり、城主盛信以下将兵の決死の奮戦も17倍の兵力の前には、如何ともし難く、3千の兵はことごとく討ち死にした。
 城主盛信は腹を掻ききり、自らの手で腸を壁に投げつけたと古書は伝えている。
武田勝頼は諏訪上原城から新府に退き天目山で自害し、高遠城の戦いは武田滅亡の最後の華々しい、そして悲しい戦いの場となった。
現地案内板より

武田軍の信濃侵攻

 甲斐武田の信濃進攻は享禄元年(1528)9月武田信虎が諏訪郡へ侵入、諏訪上社の諏訪頼満・頼隆父子と神戸、境川付近で戦ったのを最初とし、天文5年(1536)11月には佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。この戦いが初陣だった晴信(後の信玄)は知略で海ノ口城を落とす。
 天文9年(1540)5月には、信虎が佐久郡の城を十数城落とし前山城を築き、天文10年(1541)5月信虎は村上義清、諏訪頼重等と結び海野棟綱を攻め、海野平に海野棟綱を破る。同年6月、晴信は父・信虎を駿河今川家に退隠させ、武田の総帥として信濃攻略に向けて全力を傾けていく。
 この頃の信濃は小笠原長時が守護職として任じられていたが、その勢力は北信濃までは及ばず、北信濃は村上義清を筆頭として豪族が入り乱れ、諸豪族は外敵である信玄に対し、協力して立ち向かっていく。
 天文10年頃から北信濃の諸豪族が村上義清を頼ったことから、諏訪の諏訪頼重に加えて、北信濃の村上義清、中・南信濃の小笠原長時と武田信玄との戦いが本格化する。
 天文11年(1542)信玄は一転して伊那の藤沢頼親,小笠原長時と戦い、天文14年(1545)4月に諏訪頼継の高遠城を攻め落とし、高遠城を拠点にして箕輪城(福与城)の藤沢頼親を攻め、天文15年頃には諏訪を制圧する。
 天文16年(1547)佐久郡・内山城の大井貞清に出仕を促し、大井貞清親子は甲府に出仕したのをきっかけに、8月には佐久郡の志賀城を攻め、笠原清繁を破る。翌天文17年(1548)8月佐久郡の田口城を小山田出羽守に攻めさせ、田口良能に加勢した北信濃の諸豪族をことごとく討ち取り、9月には佐久郡を制圧する。享禄元年(1528)に諏訪に侵攻してから諏訪・佐久郡を制圧したのは、信虎・信玄の2代にわたって実に23年を要した。
 天文20年(1551)3月村上義清、小笠原長時は連合して深志城(松本城)の奪還を図るが、信玄は5月には真田幸隆をもって砥石城を落とす。
 この間、武田軍は天文17年(1548)2月、小県の上田原に村上義清と戦い敗れ、天文19年(1550)9月には小県の砥石城を攻めて敗れる(砥石崩れ)等、村上義清を相手に2度の苦い敗戦を経験するが、天文21年(1552)1月には諏訪頼継を甲府に出仕、自刃させ、4月には村上義清の居城・葛尾城を落とし、5月に桔梗原で小笠原長時を破る。そして8月には村上義清が籠もる塩田城を落とす。その後、村上義清は越後の上杉謙信に援を求め、天文22年(1553)から宿命の対決とされる川中島の戦いへと発展していく。一方、天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略した武田晴信は、伊那をほぼ支配下においた。

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