塩田城
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【城郭の概要】
所在地:上田市前山
別 名 : −
築 城 : −
初城主:武田信玄
区 分 :山城
遺 構 :竪堀,石垣,横堀
城 域 :700mm×180m
     標高 600m

県指定史跡

虎ノ口と称される石垣
虎ノ口と称される石垣

【現地への案内】
 国道143号線赤坂の信号を南、県道65号線を約12km、県道82号線を約2km
詳細位置はコチラ 

【駐車場城址碑前の空地に10台程度
【訪 城】2002年9月
【撮 影】2002年9月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★☆☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 塩田城は東に神戸川渓谷、西の丘陵地に竪堀を配し、城域は東西180m、南北700mにおよぶ広大な地域であるが、城としての縄張りではなく、館として使われたと考える方が妥当である。
南側前面の堀は "らしき" 地形が認められる程度である。真っ直ぐに延びるなだらかな山道を登ると約20分ほどで「虎ノ口」と称され、石垣の残るところに出るが、これは虎口ではなく屋形跡と考えられる。
更に登ると塩田陸奥守国時の墓がある。この辺りから弘法山山頂までは嶮しい道が続く。約50分ほど登った所でこの日は山城4城目ということもありダウン。高所恐怖症にとってはイヤな道となったこともあり撤退。
塩田城縄張り図

【城郭の歴史】
 塩田城は鎌倉時代中期(建治3年 1277)鎌倉幕府の重職であった北条 義政がこの地に移り館を構えたことから始まる。義政の子国時、その子俊時と三代にわたり約60年間、塩田北条と称し信濃の一大勢力としてこの地方を統治し、また幕府内でも活躍した。
 元弘3年(1333)鎌倉幕府の運命が危うくなったとき、この塩田北条氏は「いざ鎌倉」と一族を挙げて支援にかけつけたが奮戦むなしく幕府と共に滅亡した事情は「太平記」に詳しい。
 その頃、この地方は信濃の雄村上氏の領有するところとなり、村上氏は重臣福沢氏をここにおいて統治させた。再び塩田城は政治の中心として重要な役割を果たしていたが、天文22年(1553)甲斐の武田信玄に攻められ落城した。
 信玄はこの塩田城を戦略上の重要性に注目し、特に飯富氏等の重臣をこの城におき、自らも時々ここに滞在して東信濃の拠点とした。信玄の子勝頼もそれにならったので、この城は上田城を築くまで約30年間この地方の軍政両面の拠点であった。
 このような歴史上の重要性にかんがみ上田市では昭和50年から3年間にわたり塩田城の発掘調査を実施したが、その結果種々の貴重な遺構、遺物が発見された。(発掘現場はここから約100m上方で、そこに説明板がある)
 それらの成果に元ずく最近の研究に拠れば、北条氏時代の館はこの集落の入口(小字竹の内)あたりにあったらしく、村上・武田氏の時になって山腹から頂上にかけて東西100m、南北100mにおよぶ築城の跡が明らかに残り、県内最大級の中世城館として知られている。
長野県教育委員会 上田市教育委員会


武田軍の信濃侵攻

 甲斐武田の信濃進攻は享禄元年(1528)9月武田信虎が諏訪郡へ侵入、諏訪上社の諏訪頼満・頼隆父子と神戸、境川付近で戦ったのを最初とし、天文5年(1536)11月には佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。この戦いが初陣だった晴信(後の信玄)は知略で海ノ口城を落とす。
 天文9年(1540)5月には、信虎が佐久郡の城を十数城落とし前山城を築き、天文10年(1541)5月信虎は村上義清、諏訪頼重等と結び海野棟綱を攻め、海野平に海野棟綱を破る。同年6月、晴信は父・信虎を駿河今川家に退隠させ、武田の総帥として信濃攻略に向けて全力を傾けていく。
 この頃の信濃は小笠原長時が守護職として任じられていたが、その勢力は北信濃までは及ばず、北信濃は村上義清を筆頭として豪族が入り乱れ、諸豪族は外敵である信玄に対し、協力して立ち向かっていく。
 天文10年頃から北信濃の諸豪族が村上義清を頼ったことから、諏訪の諏訪頼重に加えて、北信濃の村上義清、中・南信濃の小笠原長時と武田信玄との戦いが本格化する。
 天文11年(1542)信玄は一転して伊那の藤沢頼親,小笠原長時と戦い、天文14年(1545)4月に諏訪頼継の高遠城を攻め落とし、高遠城を拠点にして箕輪城(福与城)の藤沢頼親を攻め、天文15年頃には諏訪を制圧する。
 天文16年(1547)佐久郡・内山城の大井貞清に出仕を促し、大井貞清親子は甲府に出仕したのをきっかけに、8月には佐久郡の志賀城を攻め、笠原清繁を破る。翌天文17年(1548)8月佐久郡の田口城を小山田出羽守に攻めさせ、田口良能に加勢した北信濃の諸豪族をことごとく討ち取り、9月には佐久郡を制圧する。享禄元年(1528)に諏訪に侵攻してから諏訪・佐久郡を制圧したのは、信虎・信玄の2代にわたって実に23年を要した。
 天文20年(1551)3月村上義清、小笠原長時は連合して深志城(松本城)の奪還を図るが、信玄は5月には真田幸隆をもって砥石城を落とす。
 この間、武田軍は天文17年(1548)2月、小県の上田原に村上義清と戦い敗れ、天文19年(1550)9月には小県の砥石城を攻めて敗れる(砥石崩れ)等、村上義清を相手に2度の苦い敗戦を経験するが、天文21年(1552)1月には諏訪頼継を甲府に出仕、自刃させ、4月には村上義清の居城・葛尾城を落とし、5月に桔梗原で小笠原長時を破る。そして8月には村上義清が籠もる塩田城を落とす。その後、村上義清は越後の上杉謙信に援を求め、天文22年(1553)から宿命の対決とされる川中島の戦いへと発展していく。一方、天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略した武田晴信は、伊那をほぼ支配下においた。


川中島の戦い
 領土の拡大を信濃に求めた甲斐の武田信玄(当時武田晴信)は約12年間に及ぶ戦いの末、天文21年(1552)筑摩・安曇野を支配していた小笠原長時を信濃から追い出した。
また翌天文22年(1553)には、信濃の北部から中東部一帯を支配していた村上義清の居城・葛尾城を落とし、なおも塩田城に立て籠もる村上義清を攻めた。居城・葛尾城を落とされ塩田城も攻め落とされるに及んで、村上義清は越後・春日山城の上杉謙信(当時は長尾景虎)を助けを求めた。
 前年の天文21年、主家筋にあたる関東管領・上杉憲政が北条氏康に関東を追われ越後に亡命してきたことで、秩序を重んじ正義心に燃える上杉謙信は、北条氏康討伐のために関東に出兵していたが、村上義清の援助要請と共に、北信濃まで勢力を拡大してきた信玄に脅威を感じ、武田軍を駆逐すべく信濃にも出兵することを決意した。
 こうして、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は善光寺平を中心とした千曲川流域で、天文22年から永禄7年(1564年)までの11年の間に5度戦うことになる。これが世に云う川中島の戦いである。

第1回川中島の戦い
 天文21年(1552)村上義清の立て籠もる塩田城を落とし小県の失地を回復した信玄は、天文22年(1553)8月に川中島に至り、長尾景虎と初めてまみえた。戦いは半月ほどに及んだが、大きな戦いもなく9月半ばに景虎が兵を引き、信玄も深志城(松本城)に帰陣した。

第2回川中島の戦い
 弘治元年(1555年)長尾景虎の家臣である北条高広が信玄に内通し、反乱を起こしたことに始まり、4月に景虎が武田軍の籠もる旭山城を攻める。これに対して信玄は援軍を送り対抗し、7月には信玄自らも出陣して犀川付近で戦いに及ぶが決着はつかず、犀川を挟んで両軍は対峙したまま戦線は膠着した。
 信玄が今川義元に調停を依頼し、10月に講和が成立。武田軍が旭山城を破却し善光寺平を非武装地帯とすることと、武田氏が北信濃の豪族に旧地を返すことを条件に両軍は兵を引いた。

第3回川中島の戦い
 弘治元年(1555)の講和成立後も武田軍は北信濃で頻繁に軍事行動を起こし、弘治3年(1557)2月信玄は景虎方が守っていた葛山城を落とすことで善光寺平を押さえた。次いで北信濃における景虎方の拠点である高梨氏の飯山城(飯山市)を攻め落とし、武田軍は下水内郡までも領有するに至った。
 飯山城は北信濃から越後・春日山城に至る飯山街道(国道292号線)を押さえる位置にあり、飯山城が落とされると景虎は信濃進出の重要な拠点を失うばかりでなく、武田軍の勢力が越後にも及ぶこととなるため、景虎はすぐさま出陣し飯山城を奪還すると、その勢いをもって4月には善光寺平へ押し出し旭山城を修築して本陣とした。
 旭山城に陣を構えた景虎に対し、信玄は深志城(松本城)へ帰陣して動こうとはしなかった。8月に入って上野原(戦いの場所については諸説があるが川中島北部、長野市内とするのが有力)で両軍は戦ったが、信玄が直接の対決を避けたため大きな戦いにはならず、景虎は9月に春日山城へ帰陣した。

第4回川中島の戦い
 永禄4年(1561)4月景虎は北条氏の本城小田原城を包囲し、その帰路鎌倉の鶴岡八幡宮の社前において上杉氏を襲名し、名を政虎と改めた。その間信玄は北条氏の要請に応じて上杉勢の背後を脅かし信越国境や西上野に侵入した。
 信玄の調略による切り崩しやゲリラ的な戦法に対し、正面きっての戦いを望む政虎は、8月14日1万8千余の軍勢を率い善光寺に出た上で、5千の兵を善光寺平に残し1万3千の兵を率いて千曲川を押し渡り、武田軍が北信濃の軍事拠点としている海津城(松代城)を見下ろす位置にある妻女山に本陣を置いた。
 “政虎来たる”との知らせを受けた信玄は8月16日に出陣し、21日には善光寺平手前の塩崎城に入り、24日には千曲川を挟んで政虎と対峙する形で茶臼山に陣を置いた。茶臼山は政虎が千曲川を渡って越後への帰路にあたり退路を絶つことになるが、政虎は妻女山から動かず、信玄も29日には海津城に入った。 海津城と政虎の本陣・妻女山は約3kmの至近距離で、両者がこれだけの至近距離で対峙したのは信玄との直接対決を望む政虎が千曲川を渡ることで信玄に誘いをかけ、信玄がこの誘いに乗った結果といえる。
 9月9日夜、信玄は2万人の兵力のうちから1万2千を別働隊として妻女山の政虎陣に夜襲をかける手はずを整えると、自らは八幡原へ出て夜襲によって妻女山から降りてくる政虎軍を待ちかまえた。
山本勘助の墓
千曲川の河原に立てられた山本勘助の墓

 一方、政虎は武田軍の動きから夜襲を察知し、夜のうちに妻女山を下山して千曲川を渡り八幡原に陣を移し、夜明けと共に両軍入り乱れての戦いとなった。 緒戦は、上杉軍が八幡原に陣を構えていると予想していなかった武田軍は不意をつかれた上に、兵力に勝る上杉軍に押され苦戦するも、妻女山に向かった別働隊1万2千余が参戦するに及んで上杉軍は敗走し、結果的には武田軍が大勝した。
 この戦いで上杉軍の死者は3千5百、負傷者は1万。武田軍の死者は4千5百、負傷者は1万2千とも云われ、両軍ともに大きな被害を出したが、戦いの結果、善光寺平の北方にある旭山城葛山城大峰城等の諸城を押さえた武田軍は善光寺平を掌握することとなった。以後、戦線は北に移り、上杉軍が北信濃の拠点とする飯山城や信越国境近くの野尻城(野尻城と野尻新城の総称)などを巡っての争奪戦となる。

第5回川中島の戦い
 永禄7年(1564)3月関東に出兵していた上杉輝虎(永禄6年、政虎改め輝虎)に対し、信玄は会津黒川城の蘆名盛氏に輝虎の背後を衝かせ、この隙に乗じて自らが信越国境に出兵して野尻城(上水内郡信濃町)を攻略した。
 野尻城から輝虎の居城・春日山城までは約30km、喉元に刃を突きつけられた格好の輝虎は急遽関東から帰国し、5月には野尻城を奪回すると、7月に善光寺平に進出し、8月には川中島に陣を張り信玄を持ったが、信玄は千曲川を渡り篠ノ井(海津城の北)まで出陣したが輝虎の誘いに乗らず60日余りの対陣後、10月に輝虎は帰国した。この戦いで輝虎は信越国境近くの野尻城と飯山城を確保したものの北信濃の大部分は武田領に帰した。
 こうした戦いの中で千曲川沿いの替佐城壁田城髻山城などの諸城が飯山城や野尻城の攻防のために両軍によって利用されたことは推測するに待たないが、替佐城や髻山城は北信濃には珍しい円弧を描いた横堀が入っており武田軍による改修を示唆していると考えられる。
野尻城
野尻城は野尻湖に浮かぶ琵琶島にある

 信玄は信濃で輝虎と戦いながも、永禄4年(1561)頃から碓氷峠を越え上野に出て倉賀野城(群馬県高崎市)を攻め、永禄5年には北条氏康と共に武藏の松山城を攻めるなど上杉勢と戦い、永禄6年に松山城、永禄8年には倉賀野城を落とし、翌永禄9年には箕輪城を攻略する等、上野における領土拡大を図る中で、武田信玄と上杉輝虎の戦いは川中島から関東に舞台を変えていった。

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