志賀城
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【城郭の概要】
所在地:佐久市志賀字城
別 名 : −
築 城 :戦国時代
初城主:笠原氏
区 分 :山城
遺 構 :堀切,石積み,土塁
城 域 :250m×120m
     標高 880m
     比高 170m


堀切
三日月堀状の少し変わった形状の堀切

【現地への案内】
 佐久市街地から県道44号線を西へ、志賀地区に入ると県道沿い左手の雲興寺(雲興寺の案内板が目印)
詳細はコチラ 

【駐車場雲興寺の駐車場を利用、5〜6台
【訪 城】2005年8月
【撮 影】2005年8月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★★
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 雲興寺の背後の山にあり、境内横から山に入ると間もなく目の前に岩の壁が現れ、この山のもつ最大の特徴を目の当たりにする。こうした巨石による岩の壁は、内山城田口城の西尾根や南斜面にも共通して見られるもので、この地域の山の特徴とも云える。
巨石の壁は圧巻
巨石の壁

 約40分ほどで山頂の主曲輪に出るが、この間に曲輪と共に土留めの石積みと石塁として利用したと考えられる施設らしきものを幾つも見られる。曲輪は削平状態が極めて良いものと、自然地形そのままのものがあり、手を入れる所は徹底して手を入れるという思想が感じられた。
尾根に出て主郭に至るまでの堀切は三日月堀のような形状をしていた。堀の両側に土橋を渡していたものが、このような形状になったのか不明だが、いずれにしても非常に興味深い。
 主曲輪を中心に東側の尾根は次第に細くなり、東端には自然地形を利用した巨石による大堀切がある。尾根自体痩せ尾根である上に、切り立った断崖に高所恐怖症の私は足がすくんだ。(^^;
 峻険さで云えば高天神城(静岡県)の“犬戻り”を想像して頂ければよい。志賀城はこうした巨石による岩の壁を最大限に利用して築城されており、16〜17日間に及ぶ武田軍の攻撃にも落ちることのなかったことが頷けた。
山中で見られる石積み
石積み

 訪れたのは8月中旬でしたが、ブナ林の緑が非常にきれいで、城と共に山歩きを楽しめ、機会があれば今度は紅葉の時期に訪れたい山城でした。


【城郭の歴史】
 天文9年頃から甲斐の武田氏による佐久侵略が本格化し、天文15年には内山城が落ちて、残るは笠原新三郎清繁の志賀城だけとなった。天文16年に武田信玄自らが出陣し、志賀城を攻めるが、武田軍は攻めあぐむ中、上野の援軍と武田方の板垣駿河守信方が小田井原で合戦に及び、武田軍は勝利する。援軍の敗報を利いた志賀城の城兵は落胆し、武田軍の軍門に下った。


武田軍の信濃侵攻

 甲斐武田の信濃進攻は享禄元年(1528)9月武田信虎が諏訪郡へ侵入、諏訪上社の諏訪頼満・頼隆父子と神戸、境川付近で戦ったのを最初とし、天文5年(1536)11月には佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。この戦いが初陣だった晴信(後の信玄)は知略で海ノ口城を落とす。
 天文9年(1540)5月には、信虎が佐久郡の城を十数城落とし前山城を築き、天文10年(1541)5月信虎は村上義清、諏訪頼重等と結び海野棟綱を攻め、海野平に海野棟綱を破る。同年6月、晴信は父・信虎を駿河今川家に退隠させ、武田の総帥として信濃攻略に向けて全力を傾けていく。
 この頃の信濃は小笠原長時が守護職として任じられていたが、その勢力は北信濃までは及ばず、北信濃は村上義清を筆頭として豪族が入り乱れ、諸豪族は外敵である信玄に対し、協力して立ち向かっていく。
 天文10年頃から北信濃の諸豪族が村上義清を頼ったことから、諏訪の諏訪頼重に加えて、北信濃の村上義清、中・南信濃の小笠原長時と武田信玄との戦いが本格化する。
 天文11年(1542)信玄は一転して伊那の藤沢頼親,小笠原長時と戦い、天文14年(1545)4月に諏訪頼継の高遠城を攻め落とし、高遠城を拠点にして箕輪城(福与城)の藤沢頼親を攻め、天文15年頃には諏訪を制圧する。
 天文16年(1547)佐久郡・内山城の大井貞清に出仕を促し、大井貞清親子は甲府に出仕したのをきっかけに、8月には佐久郡の志賀城を攻め、笠原清繁を破る。翌天文17年(1548)8月佐久郡の田口城を小山田出羽守に攻めさせ、田口良能に加勢した北信濃の諸豪族をことごとく討ち取り、9月には佐久郡を制圧する。享禄元年(1528)に諏訪に侵攻してから諏訪・佐久郡を制圧したのは、信虎・信玄の2代にわたって実に23年を要した。
 天文20年(1551)3月村上義清、小笠原長時は連合して深志城(松本城)の奪還を図るが、信玄は5月には真田幸隆をもって砥石城を落とす。
 この間、武田軍は天文17年(1548)2月、小県の上田原に村上義清と戦い敗れ、天文19年(1550)9月には小県の砥石城を攻めて敗れる(砥石崩れ)等、村上義清を相手に2度の苦い敗戦を経験するが、天文21年(1552)1月には諏訪頼継を甲府に出仕、自刃させ、4月には村上義清の居城・葛尾城を落とし、5月に桔梗原で小笠原長時を破る。そして8月には村上義清が籠もる塩田城を落とす。その後、村上義清は越後の上杉謙信に援を求め、天文22年(1553)から宿命の対決とされる川中島の戦いへと発展していく。一方、天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略した武田晴信は、伊那をほぼ支配下においた。


管理者・野暮からのご紹介
 “志賀城に行かれる際には、併せて以下を廻られたら如何でしょう”

★お城マニア

志賀城と併せて廻って欲しいのが内山城田口城です。これらのお城は巨石で構成された山に築城されており、佐久地方を代表する山城と云えます。


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