大島城
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【城郭の概要】
所在地:下伊那郡松川町大島
別 名 :台城
築 城 : −
初城主: −
区 分 :平城
遺 構 :横堀,土塁,井戸
城 域 :400m×200m
     標高 490m
     比高 40m

町指定史跡

丸馬出前面の三日月堀
丸馬出前面の三日月堀

【現地への案内】
国道153号線山吹の信号を西、約1km台城公園
詳細位置はコチラ 

【駐車場城址公園駐車場を利用 約20台可
【訪 城】2001年10月
【撮 影】2001年10月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★★
縄張り ★★★
普請 ★★★
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★★
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 武田が天文11年(1542)に侵攻して以後、信濃に築いた、あるいは改修した城は多いが、牧野島城(上水内郡信州新町牧野島)とともに、武田系城郭としての特徴を最もよく残している城である。また、背後に天竜川の段丘を控えた要害地形も特筆される。

 曲輪はゲートボール場として使われ、いささか興ざめであるが、丸馬出や、その前面の二重の三日月堀、および曲輪周囲の空堀はいずれもスケールも大きくたっぷりと楽しめる。
 静岡県の諏訪原城,愛知県の古宮城とともに、武田系城郭の中で私の好きな城の一つである。
大島城の縄張り図

【城郭の歴史】
 平安時代の末、南信濃源氏片桐氏は片桐郷の南に続く大島郷に分知した。片桐兵庫助為行の八男片桐八郎宗綱を名乗ったのが大島氏のはじめとされる。大島氏は鎌倉幕府に仕え、以後中世を通じてこの一帯を領有・統治し、大島城・北の城・沼の城などを築いた。
 南信濃攻略を窺っていた甲斐の武田氏は天文23年(1554)一挙に伊那郡に侵入し、ここを手中にした晴信(信玄)は秋山信友を飯田城におき伊那谷を統治しました。
 元亀2年(1571)、武田氏は大島城を東海地方攻略、ならびに京へ上るための拠点とするため、伊那郡代秋山信友に命じて大島城の大改修を行いました。この時、下伊那19の郷民と2衆を城普請の人足として強制的に動員した事を記す武田氏の朱印状が残っています。

 現在の大島城はこの時に構築されたもので、武田流築城法による馬出や三日月堀、三つの曲輪とそれを取りまく迷路のような空堀が当時のまま残されています。
 信玄亡き後の勝頼の代、天正10年(1582)織田信長が伊那郡に侵入したとき大島城は信玄の弟信廉が守っていましたが、信廉ら有力な武将は織田氏の進撃に驚き、夜中に逃亡したことが「信長記」に記されています。
 城内からは建物の礎石や雨落溝の石列、陶磁器や古銭、焼米等が発見され、井戸跡には落城の際お姫様が金の?を抱いて身を投げたという悲しい伝説も伝えられています。
松川町教育委員会 (一部修正)

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