大倉城
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【城郭の概要】
所在地:上水内郡豊野町大倉字城山
別 名 :
築 城 :戦国時代
初城主:島津氏
区 分 :山城
遺 構 :石垣,堀切,竪堀,井戸
城 域 :300m×100m
     標高 539m
     比高 約100m
 町指定史跡

堀切
三の曲輪東の大堀切

【現地への案内】
  国道18号線大倉の信号から北へ100m
詳細位置はコチラ 

【駐車場空地を利用
【訪 城】2003年9月
【撮 影】2003年9月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 舌状尾根が東の千曲川に向かって延び、その尾根の北には嘉児加川の渓谷、南には鳥井川が流れ、大倉城はこの尾根の先端に築かれ、南方には北国街道を見下ろす位置にある。北国街道は北に向かえば野尻湖を経て越後に続き、南に向かえば善光寺平へと続き、要衝・要害の位置にある。
永禄年間には北信濃に侵攻した武田軍と上杉軍が争奪戦を繰り返した野尻城、また武田軍の拠点となった替佐城とを繋ぐ扇の要に位置し、両軍にとって重要な戦略拠点であったことは容易に想像がつく。
縄張り図

 今井用水を経て、約10分ほど登ると、三の曲輪東側の堀切に出る。
この間、石段があちこちにあり、当時のものか、それとも後年のものか、判断に苦しみながら登る。尾根に出る手前に、明らかに登城道を確保するための土止めの石垣と、門跡とおぼしき石組みを確認して、ようやく石段が当時のものであることの確証を深めた。
尾根に出ると、そこはいきなり堀切で、その堀底幅は6〜7mはあろうかという大きなものだが、いきなり堀底へ出たためか、大きさについての感動は薄い。むしろ三の曲輪の切岸の高さが魅力的である。(^^)
登山者用に階段がつけられていて苦労なく登れるが、こうした整備がされていなければ、まずこの切岸を登ることは不可能と思われる急勾配である。
 曲輪配置は東端に三の曲輪、西に延びる尾根に二の曲輪、主曲輪と配置する連郭式の曲輪配置であるが、曲輪はすこぶるきれいに削平されている。
主曲輪に備え付けられたノートには、この日の午前中に地元の方によって草刈りがされたとの記述。お陰で曲輪の状態が非常にわかりやすい、ラッキーなことこの上なし。同時に地元の方々に感謝。
 主曲輪西側の袖曲輪には周囲を石で固めた井戸が残されている。
土止めであろうか石積みの跡が見られる
石積み
主曲輪の西側には堀切が配置され、堀底までの深さはざっと10m〜12m。この堀切からピークを越えてると、間髪を入れずに3条の堀切を入れ、更に70mほど離れた尾根に大堀切を入れると云った念の入れようで、背後の尾根に防備の意識が強い。

【城郭の歴史】
 鎌倉時代の寛元年間(1234〜46)に小笠原信濃守長清が築城、九男与市長澄が大倉氏を名乗って住居したと伝えられるが、文献資料によると戦国時代の永正10年(1513)頃には築城していたと考えられる。
 川中島合戦の頃には上杉氏勢力下にあった長沼島津氏が領有し、長沼館の詰めの城として、また武田氏の北信濃侵攻に対する備えとして機能していた。戦後は廃城となったが天正10年(1582)に武田氏を滅ぼして川中島四郡を支配した織田信長の家臣森長可にたいして、上杉景勝と手を結んだ芋川荘(現上水内郡三水村芋川)の芋川親正を大将とする8,000の一揆が蜂起し、大倉古城を修築して立て籠もった。
 「信長公記」によると、4月7日、激戦の末1,250余人が城外で討ち取られ、城内に残っていた女性や子供1,000余人が切り捨てられたという悲劇の舞台となった。 
現地案内板より

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