松本城
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【城郭の概要】
所在地:長野市西条
別 名 : −
築 城 : −
初城主: −
区 分 :山城
遺 構 :土塁,堀切,竪堀,横堀,石垣
城 域 :400m×200m
     標高 744m
     比高 約150m



主曲輪北西斜面の半円形空掘
主曲輪北西斜面の半円形空掘

【現地への案内】
県道60号線を一旦西に入り林道へ
詳細はコチラ 

【駐車場林道に駐車
【訪 城】2004年5月
【撮 影】2004年5月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 髻山城へは幾つかルートがあるようだが、県道60号線(北国街道)を一旦髻山の北側に出て、林道からのルートをとった。林道入口には車を置いて、約15分歩くと北斜面につけられた髻山登山道入口に着く。ここからはかたくりの群生地で、かたくりの花を楽しみながらの城攻めとなった。(^^)
 更に約15分ほど整備された山道を上ると髻山城の主曲輪下に出る。虎口部は牛蒡積みの石垣が積まれており、ビックリする。主曲輪の虎口横は竪堀で意識的に道幅を狭める工夫がされている。南側斜面は断崖絶壁をなし、要害地形である。
虎口の石垣

主曲輪北西側の斜面には、半円形の横堀と竪堀を組み合わせた防御が施されており、円形の堀からは武田軍による改修の可能性が強く感じられた。また、西側斜面は植林により、後年手が入っており、どこまでが当時の遺構か判断に苦しんだ。

【城郭の歴史】
 ここ髻山城址は戦国時代数次の川中島合戦において葛山城大峰山城旭山城横山城飯山城の諸城と共に宿敵武田信玄の野望を粉砕するため越後(現在の新潟県)の勇将上杉謙信の重要な砦であった。
当髻山城は本陣横山城と飯山城の中間に位置し、その眺望は大変優れ、東南には妻女山・犀川・千曲川・川中島平等敵味方の動静を見渡せ、西北には北信五岳から越後の空を見渡すことが出来る。眼下には自軍の動脈である北国街道を守った。

 弘治3年(1557)武田軍の髻山城攻撃の際の猛将・長尾政景の大奮戦、また永禄4年(1561)川中島大決戦後の撤兵収束の見事さを後世に残した名将・宇佐見定行の采配ぶり、打ち上げるのろし等々戦史を彩った幾コマかがこの城に残されている。
「宇佐見沢」(髻山入口)の「馬かくし」(城址北側の空掘)、「抜け穴」等の地名によって追想することが出来る。
長野市観光協会   現地案内板より


川中島の戦い
 領土の拡大を信濃に求めた甲斐の武田信玄(当時武田晴信)は約12年間に及ぶ戦いの末、天文21年(1552)筑摩・安曇野を支配していた小笠原長時を信濃から追い出した。
また翌天文22年(1553)には、信濃の北部から中東部一帯を支配していた村上義清の居城・葛尾城を落とし、なおも塩田城に立て籠もる村上義清を攻めた。居城・葛尾城を落とされ塩田城も攻め落とされるに及んで、村上義清は越後・春日山城の上杉謙信(当時は長尾景虎)を助けを求めた。
 前年の天文21年、主家筋にあたる関東管領・上杉憲政が北条氏康に関東を追われ越後に亡命してきたことで、秩序を重んじ正義心に燃える上杉謙信は、北条氏康討伐のために関東に出兵していたが、村上義清の援助要請と共に、北信濃まで勢力を拡大してきた信玄に脅威を感じ、武田軍を駆逐すべく信濃にも出兵することを決意した。
 こうして、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は善光寺平を中心とした千曲川流域で、天文22年から永禄7年(1564年)までの11年の間に5度戦うことになる。これが世に云う川中島の戦いである。

第1回川中島の戦い
 天文21年(1552)村上義清の立て籠もる塩田城を落とし小県の失地を回復した信玄は、天文22年(1553)8月に川中島に至り、長尾景虎と初めてまみえた。戦いは半月ほどに及んだが、大きな戦いもなく9月半ばに景虎が兵を引き、信玄も深志城(松本城)に帰陣した。
第2回川中島の戦い
 弘治元年(1555年)長尾景虎の家臣である北条高広が信玄に内通し、反乱を起こしたことに始まり、4月に景虎が武田軍の籠もる旭山城を攻める。これに対して信玄は援軍を送り対抗し、7月には信玄自らも出陣して犀川付近で戦いに及ぶが決着はつかず、犀川を挟んで両軍は対峙したまま戦線は膠着した。
 信玄が今川義元に調停を依頼し、10月に講和が成立。武田軍が旭山城を破却し善光寺平を非武装地帯とすることと、武田氏が北信濃の豪族に旧地を返すことを条件に両軍は兵を引いた。

第3回川中島の戦い
 弘治元年(1555)の講和成立後も武田軍は北信濃で頻繁に軍事行動を起こし、弘治3年(1557)2月信玄は景虎方が守っていた葛山城を落とすことで善光寺平を押さえた。次いで北信濃における景虎方の拠点である高梨氏の飯山城(飯山市)を攻め落とし、武田軍は下水内郡までも領有するに至った。
 飯山城は北信濃から越後・春日山城に至る飯山街道(国道292号線)を押さえる位置にあり、飯山城が落とされると景虎は信濃進出の重要な拠点を失うばかりでなく、武田軍の勢力が越後にも及ぶこととなるため、景虎はすぐさま出陣し飯山城を奪還すると、その勢いをもって4月には善光寺平へ押し出し旭山城を修築して本陣とした。
 旭山城に陣を構えた景虎に対し、信玄は深志城(松本城)へ帰陣して動こうとはしなかった。8月に入って上野原(戦いの場所については諸説があるが川中島北部、長野市内とするのが有力)で両軍は戦ったが、信玄が直接の対決を避けたため大きな戦いにはならず、景虎は9月に春日山城へ帰陣した。

第4回川中島の戦い
 永禄4年(1561)4月景虎は北条氏の本城小田原城を包囲し、その帰路鎌倉の鶴岡八幡宮の社前において上杉氏を襲名し、名を政虎と改めた。その間信玄は北条氏の要請に応じて上杉勢の背後を脅かし信越国境や西上野に侵入した。
 信玄の調略による切り崩しやゲリラ的な戦法に対し、正面きっての戦いを望む政虎は、8月14日1万8千余の軍勢を率い善光寺に出た上で、5千の兵を善光寺平に残し1万3千の兵を率いて千曲川を押し渡り、武田軍が北信濃の軍事拠点としている海津城(松代城)を見下ろす位置にある妻女山に本陣を置いた。
 “政虎来たる”との知らせを受けた信玄は8月16日に出陣し、21日には善光寺平手前の塩崎城に入り、24日には千曲川を挟んで政虎と対峙する形で茶臼山に陣を置いた。茶臼山は政虎が千曲川を渡って越後への帰路にあたり退路を絶つことになるが、政虎は妻女山から動かず、信玄も29日には海津城に入った。 海津城と政虎の本陣・妻女山は約3kmの至近距離で、両者がこれだけの至近距離で対峙したのは信玄との直接対決を望む政虎が千曲川を渡ることで信玄に誘いをかけ、信玄がこの誘いに乗った結果といえる。
 9月9日夜、信玄は2万人の兵力のうちから1万2千を別働隊として妻女山の政虎陣に夜襲をかける手はずを整えると、自らは八幡原へ出て夜襲によって妻女山から降りてくる政虎軍を待ちかまえた。

千曲川の河原に立てられた山本勘助の墓

 一方、政虎は武田軍の動きから夜襲を察知し、夜のうちに妻女山を下山して千曲川を渡り八幡原に陣を移し、夜明けと共に両軍入り乱れての戦いとなった。 緒戦は、上杉軍が八幡原に陣を構えていると予想していなかった武田軍は不意をつかれた上に、兵力に勝る上杉軍に押され苦戦するも、妻女山に向かった別働隊1万2千余が参戦するに及んで上杉軍は敗走し、結果的には武田軍が大勝した。
 この戦いで上杉軍の死者は3千5百、負傷者は1万。武田軍の死者は4千5百、負傷者は1万2千とも云われ、両軍ともに大きな被害を出したが、戦いの結果、善光寺平の北方にある旭山城葛山城大峰城等の諸城を押さえた武田軍は善光寺平を掌握することとなった。以後、戦線は北に移り、上杉軍が北信濃の拠点とする飯山城や信越国境近くの野尻城(野尻城と野尻新城の総称)などを巡っての争奪戦となる。

第5回川中島の戦い
 永禄7年(1564)3月関東に出兵していた上杉輝虎(永禄6年、政虎改め輝虎)に対し、信玄は会津黒川城の蘆名盛氏に輝虎の背後を衝かせ、この隙に乗じて自らが信越国境に出兵して野尻城(上水内郡信濃町)を攻略した。
 野尻城から輝虎の居城・春日山城までは約30km、喉元に刃を突きつけられた格好の輝虎は急遽関東から帰国し、5月には野尻城を奪回すると、7月に善光寺平に進出し、8月には川中島に陣を張り信玄を持ったが、信玄は千曲川を渡り篠ノ井(海津城の北)まで出陣したが輝虎の誘いに乗らず60日余りの対陣後、10月に輝虎は帰国した。この戦いで輝虎は信越国境近くの野尻城と飯山城を確保したものの北信濃の大部分は武田領に帰した。
 こうした戦いの中で千曲川沿いの替佐城壁田城髻山城などの諸城が飯山城や野尻城の攻防のために両軍によって利用されたことは推測するに待たないが、替佐城や髻山城は北信濃には珍しい円弧を描いた横堀が入っており武田軍による改修を示唆していると考えられる。

野尻城は野尻湖に浮かぶ琵琶島にある

 信玄は信濃で輝虎と戦いながも、永禄4年(1561)頃から碓氷峠を越え上野に出て倉賀野城(群馬県高崎市)を攻め、永禄5年には北条氏康と共に武藏の松山城を攻めるなど上杉勢と戦い、永禄6年に松山城、永禄8年には倉賀野城を落とし、翌永禄9年には箕輪城を攻略する等、上野における領土拡大を図る中で、武田信玄と上杉輝虎の戦いは川中島から関東に舞台を変えていった。

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