森城
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【城郭の概要】
所在地:大町市平字森
別 名 :山田城,仁科城
築 城 : −
初城主:仁科氏
区 分 :館
遺 構 :土塁,堀
城 域 : −



左手が主曲輪、右手が三の丸、道路は当時の堀
左手が主曲輪、右手が三の丸、道路は当時の堀

【現地への案内】
国道147号線木崎湖入口から木崎湖西岸へ、約300m仁科神社
詳細位置はコチラ 

【駐車場路上駐車
【訪 城】2004年10月
【撮 影】2004年10月

評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 木崎湖に突き出した半島状の丘を利用して築城され、北と東は湖水に望み、西と南は湖水の水を入れた堀に囲まれ、有事の際は湖尻の「せんば」をせき止めて水位を高め、西側に水を入れる水城の仕組みになっていたとされる。

 現在では仁科神社の建っているところが森城の主曲輪で、北側には土塁がしっかりと残されている。主曲輪の南側、仁科神社の入口前面の馬出曲輪には住宅が建てられているが、曲輪の形態をそのままを保っている。また、道路を挟んで三の曲輪がしっかりと残っている。この主曲輪と三の曲輪の間の道路が、当時木崎湖から水を引き入れ、堀としていた所である。
主曲輪の背後、木崎湖から水を引き入れた堀、当時のものか・・・


 主曲輪から木崎湖ほとりの安倍神社までの間には曲輪,土塁は確認できる。また、木崎湖から水を引き入れた幅4mほどの堀が、約20mに渡って残っているが、当時の堀か、後年のものかは不明。
 仁科神社の背後(北)に大和の古代氏族安倍氏を祀った安倍神社がある。この安倍氏は仁科氏の祖とされる。

【城郭の歴史】
 天文年間(1532〜1554)北信濃に進出した武田信玄と村上義清,上杉謙信との戦いの中で、仁科盛政も武田軍に従軍して佐久、小県地方に転戦したが、留守居役の家臣達が上杉謙信の誘いにより天正寺館館之内、森城にて武田氏に反旗を翻したことによって、仁科盛政は甲斐にて殺され、500年にわたって続いた安曇地方の名族仁科氏は滅ぶ。
その後、信玄は安曇地方を押さえるため、五男・春清に仁科家の跡目を継がせ、仁科五郎盛信と名乗らせた。
 仁科頃盛信は天正10年、高遠城を織田信長,信忠に攻められ壮絶な最期を遂げたその人である。
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 この森城は仁科氏の居城であり、木崎湖の西岸に突出する半島状の丘を利用し、湖水から流出する農具川をせき止めて浮島とした一種の水城で現在のB&G財団体育館の北に至る非常に広大な面積を持つ城である。戦国時代武田信玄が当城主仁科盛政を甲州に呼んで切腹させ、信玄の五男晴清を仁科五郎盛信と名乗らせて当城主として送り込み、上杉謙信に対抗するための城の大改修を施した戦国時代には珍しいほどの大規模の城であり、遠く日本海糸魚川近くまでを支配した拠点である。

 仁科氏は900年ともいわれる長い間、統治を支配した豪族であり、平安朝の古くから京都の朝廷とのつながりをもち、その力を背景として栄え、また塩の道と云われる日本海との移送税の収入が財力となって小豪族ながら、他の豪族に見られない中央文化を移入した仁科氏の古代文化を大町市や周辺に数多く残している。
現地案内板より
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武田軍の信濃侵攻

 甲斐武田の信濃進攻は享禄元年(1528)9月武田信虎が諏訪郡へ侵入、諏訪上社の諏訪頼満・頼隆父子と神戸、境川付近で戦ったのを最初とし、天文5年(1536)11月には佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。この戦いが初陣だった晴信(後の信玄)は知略で海ノ口城を落とす。
 天文9年(1540)5月には、信虎が佐久郡の城を十数城落とし前山城を築き、天文10年(1541)5月信虎は村上義清、諏訪頼重等と結び海野棟綱を攻め、海野平に海野棟綱を破る。同年6月、晴信は父・信虎を駿河今川家に退隠させ、武田の総帥として信濃攻略に向けて全力を傾けていく。
 この頃の信濃は小笠原長時が守護職として任じられていたが、その勢力は北信濃までは及ばず、北信濃は村上義清を筆頭として豪族が入り乱れ、諸豪族は外敵である信玄に対し、協力して立ち向かっていく。
 天文10年頃から北信濃の諸豪族が村上義清を頼ったことから、諏訪の諏訪頼重に加えて、北信濃の村上義清、中・南信濃の小笠原長時と武田信玄との戦いが本格化する。
 天文11年(1542)信玄は一転して伊那の藤沢頼親,小笠原長時と戦い、天文14年(1545)4月に諏訪頼継の高遠城を攻め落とし、高遠城を拠点にして箕輪城(福与城)の藤沢頼親を攻め、天文15年頃には諏訪を制圧する。
 天文16年(1547)佐久郡・内山城の大井貞清に出仕を促し、大井貞清親子は甲府に出仕したのをきっかけに、8月には佐久郡の志賀城を攻め、笠原清繁を破る。翌天文17年(1548)8月佐久郡の田口城を小山田出羽守に攻めさせ、田口良能に加勢した北信濃の諸豪族をことごとく討ち取り、9月には佐久郡を制圧する。享禄元年(1528)に諏訪に侵攻してから諏訪・佐久郡を制圧したのは、信虎・信玄の2代にわたって実に23年を要した。
 天文20年(1551)3月村上義清、小笠原長時は連合して深志城(松本城)の奪還を図るが、信玄は5月には真田幸隆をもって砥石城を落とす。
 この間、武田軍は天文17年(1548)2月、小県の上田原に村上義清と戦い敗れ、天文19年(1550)9月には小県の砥石城を攻めて敗れる(砥石崩れ)等、村上義清を相手に2度の苦い敗戦を経験するが、天文21年(1552)1月には諏訪頼継を甲府に出仕、自刃させ、4月には村上義清の居城・葛尾城を落とし、5月に桔梗原で小笠原長時を破る。そして8月には村上義清が籠もる塩田城を落とす。その後、村上義清は越後の上杉謙信に援を求め、天文22年(1553)から宿命の対決とされる川中島の戦いへと発展していく。一方、天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略した武田晴信は、伊那をほぼ支配下においた。
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