前山城
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【城郭の概要】
所在地:佐久市前山字城山
別 名 :伴野城
築 城 :戦国時代
初城主:伴野光利
区 分 :山城
遺 構 :堀切
城 域 :300m×50m
     標高 726m
      比高 60m

市指定史跡


二の丸と三の丸の間の堀切
二の丸と三の丸の間の堀切

【現地への案内】
 国道142号線と国道141号線の跡部の交差点を南下、野沢西の信号から145号線に乗り換えて西へ約1.5km
詳細はコチラ 

【駐車場前山小学校の跡地
【訪 城】2005年8月
【撮 影】2005年8月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 前山小学校の跡地の北西隅に建てられている忠魂碑の背後から登り、曲輪を利用して造られたリンゴ園の中を抜けて、通称 “リンゴ道” と呼ばれている道に出る。この道を上り詰めると本丸に出る。しかし、前山城への登り口は旧前山小学校のグランドから100mほど南にある。(^^;
本丸から佐久市街地を望む
本丸から佐久市街地を望む

 前山城の北側は千曲川の支流である北沢川が流れ、南側も急傾斜地崩壊危険区域に指定され、断崖絶壁であるが、リンゴ園となっている東側だけは比較的なだらかな斜面をなしている。
 本丸の東斜面に袖曲輪を配し、本丸西側に二の丸と三の丸を連続して配した連郭式の曲輪配置で、二の丸と三の丸の間と三の丸の西に堀切を入れた単純な縄張りであるが、この城の最大の特徴は山の峻険さにある。
 東約2kmほどの所に伴野館があり、併せて廻りたい。

【城郭の歴史】
 前山城跡は蓼科山の一支脈突端に位置し、本丸,二の丸,三の丸がほぼ一線に連なっている。北方は断崖の下を北沢川が流れ、東と南は急傾斜で曲輪を設け、さらに尾根筋は堀切によって防御線を構成している。
本丸から見る二の丸
本丸から見る二の丸

 鎌倉、室町の両時代を通じて、佐久郡西部に威を振るった伴野氏は伴野庄の地頭として当初は野沢館に拠ったが、室町中期にいたって詰の城として前山城を構築し、後は本拠をこの城に移した。
 天正10年(1582)前山城は芦田信蕃に攻められ、城将伴野信守は討ち死にし、兵火に焼かれて落城した。  城跡は今も旧態を完全に止めている上、焼き米その他の遺物が所々から出土する。

佐久市教育委員会   現地案内板より


武田軍の信濃侵攻

 甲斐武田の信濃進攻は享禄元年(1528)9月武田信虎が諏訪郡へ侵入、諏訪上社の諏訪頼満・頼隆父子と神戸、境川付近で戦ったのを最初とし、天文5年(1536)11月には佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。この戦いが初陣だった晴信(後の信玄)は知略で海ノ口城を落とす。
 天文9年(1540)5月には、信虎が佐久郡の城を十数城落とし前山城を築き、天文10年(1541)5月信虎は村上義清、諏訪頼重等と結び海野棟綱を攻め、海野平に海野棟綱を破る。同年6月、晴信は父・信虎を駿河今川家に退隠させ、武田の総帥として信濃攻略に向けて全力を傾けていく。
 この頃の信濃は小笠原長時が守護職として任じられていたが、その勢力は北信濃までは及ばず、北信濃は村上義清を筆頭として豪族が入り乱れ、諸豪族は外敵である信玄に対し、協力して立ち向かっていく。
 天文10年頃から北信濃の諸豪族が村上義清を頼ったことから、諏訪の諏訪頼重に加えて、北信濃の村上義清、中・南信濃の小笠原長時と武田信玄との戦いが本格化する。
 天文11年(1542)信玄は一転して伊那の藤沢頼親,小笠原長時と戦い、天文14年(1545)4月に諏訪頼継の高遠城を攻め落とし、高遠城を拠点にして箕輪城(福与城)の藤沢頼親を攻め、天文15年頃には諏訪を制圧する。
 天文16年(1547)佐久郡・内山城の大井貞清に出仕を促し、大井貞清親子は甲府に出仕したのをきっかけに、8月には佐久郡の志賀城を攻め、笠原清繁を破る。翌天文17年(1548)8月佐久郡の田口城を小山田出羽守に攻めさせ、田口良能に加勢した北信濃の諸豪族をことごとく討ち取り、9月には佐久郡を制圧する。享禄元年(1528)に諏訪に侵攻してから諏訪・佐久郡を制圧したのは、信虎・信玄の2代にわたって実に23年を要した。
 天文20年(1551)3月村上義清、小笠原長時は連合して深志城(松本城)の奪還を図るが、信玄は5月には真田幸隆をもって砥石城を落とす。
 この間、武田軍は天文17年(1548)2月、小県の上田原に村上義清と戦い敗れ、天文19年(1550)9月には小県の砥石城を攻めて敗れる(砥石崩れ)等、村上義清を相手に2度の苦い敗戦を経験するが、天文21年(1552)1月には諏訪頼継を甲府に出仕、自刃させ、4月には村上義清の居城・葛尾城を落とし、5月に桔梗原で小笠原長時を破る。そして8月には村上義清が籠もる塩田城を落とす。その後、村上義清は越後の上杉謙信に援を求め、天文22年(1553)から宿命の対決とされる川中島の戦いへと発展していく。一方、天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略した武田晴信は、伊那をほぼ支配下においた。

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