岩尾城
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【城郭の概要】
所在地:佐久市鳴瀬字城跡
別 名 :琵琶島城
築 城 :文明年間(1469〜87)
初城主:勘大井行俊
区 分 :山城
遺 構 :土塁,空掘
城 域 :300m×100m
     標高 659m
     比高 20m

     県指定史跡



三島神社前の空掘跡
三島神社前の空掘跡

【現地への案内】
 国道142号線沓沢の信号から県道78号線に乗り換え、約1.5km北上。北岩尾の信号の300m西
詳細位置はコチラ 

【駐車場近くには路上駐車する余地もなし、西側岩尾城から200〜300mほど離れた所の駐車場に10台ほど可
【訪 城】2005年8月
【撮 影】2005年8月

評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 岩尾城は湯川と千曲川のふたつの川に挟まれた段丘上に築城されており、段丘の周囲は断崖状の急傾斜であるが、東側だけは高低差のない地形になっており、こちら側を大手に開いている。
 三の曲輪東側の空掘は、現在では道路となっているが、旧状を止めており空掘と分かる。三の曲輪,二の曲輪は三島神社の境内となっているが、主曲輪、および西の曲輪は雑草と雑木が生い茂っている。
 三の曲輪東側の空掘を、案内板では「三日月掘」という表現がされており、掘が半円形の曲線をなしていたようではあるが、武田の三日月堀とは少々違う印象を受けた。
また、空掘を挟んだ東側の畑地にも一部曲輪状の地形を確認するが、果たして城域であったかは不明。

 岩尾城の縄張り図


【城郭の歴史】
  武田氏の佐久侵入は天文8年に海ノ口城等幾つかの城を落とした後に本格化し、天文10年(1541)に父・信虎を駿河に追放した信玄は、同12年に自らが出馬して小諸城内山城,岩尾城,前山城,平原城,芦田城,与良城,小田井城,望月城の諸城を落とした。
 岩尾城の場合は、相木市兵衛の勧めにより岩尾城主大井行頼はみずがら開城したという。晴信は、この要地を真田幸隆に守らせた。
 行頼は武田氏に従ってのち、五代目の行吉は永禄元年(1558)の川中島の合戦の翌年、今川氏との薩田峠合戦、続いて興津合戦などに参加、元亀2 年(1571)に開城、翌年に上野箕輪城の守備などで活躍するが、天正10年に武田氏が天目山に滅亡すると岩尾城に帰った。  
岩尾城遠景、岩尾城の手前に千曲川

 佐久は一時、織田氏の支配下に入ったが、上野からは北条氏が侵入、一方、徳田家康も食指伸ばし、麾下の依田信蕃を帰国させた。信蕃は11月までに十に余る城を陥して、残るは大道寺政秀の拠る小諸城と、北条氏に従った岩尾城だけとなった。  勢いに乗じた信蕃は天正11年2月22日、いっきに岩尾城を攻略しようと、これを包囲したが、城主行吉は20、21日と戦ったが決着がつかず、22日に信蕃自身、塀を乗り越えて城内に攻め入ろうとしたが、鉄砲に打たれて弟信幸と共に戦死した。しかし、激しい戦闘で城方は敗れ、桃源院も焼失したので、行吉は徳川の軍艦柴田康忠の勧告に従って開城し、自身は上野の保渡田に幽居した。
現地案内板より


武田軍の信濃侵攻

 甲斐武田の信濃進攻は享禄元年(1528)9月武田信虎が諏訪郡へ侵入、諏訪上社の諏訪頼満・頼隆父子と神戸、境川付近で戦ったのを最初とし、天文5年(1536)11月には佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。この戦いが初陣だった晴信(後の信玄)は知略で海ノ口城を落とす。
 天文9年(1540)5月には、信虎が佐久郡の城を十数城落とし前山城を築き、天文10年(1541)5月信虎は村上義清、諏訪頼重等と結び海野棟綱を攻め、海野平に海野棟綱を破る。同年6月、晴信は父・信虎を駿河今川家に退隠させ、武田の総帥として信濃攻略に向けて全力を傾けていく。
 この頃の信濃は小笠原長時が守護職として任じられていたが、その勢力は北信濃までは及ばず、北信濃は村上義清を筆頭として豪族が入り乱れ、諸豪族は外敵である信玄に対し、協力して立ち向かっていく。
 天文10年頃から北信濃の諸豪族が村上義清を頼ったことから、諏訪の諏訪頼重に加えて、北信濃の村上義清、中・南信濃の小笠原長時と武田信玄との戦いが本格化する。
 天文11年(1542)信玄は一転して伊那の藤沢頼親,小笠原長時と戦い、天文14年(1545)4月に諏訪頼継の高遠城を攻め落とし、高遠城を拠点にして箕輪城(福与城)の藤沢頼親を攻め、天文15年頃には諏訪を制圧する。
 天文16年(1547)佐久郡・内山城の大井貞清に出仕を促し、大井貞清親子は甲府に出仕したのをきっかけに、8月には佐久郡の志賀城を攻め、笠原清繁を破る。翌天文17年(1548)8月佐久郡の田口城を小山田出羽守に攻めさせ、田口良能に加勢した北信濃の諸豪族をことごとく討ち取り、9月には佐久郡を制圧する。享禄元年(1528)に諏訪に侵攻してから諏訪・佐久郡を制圧したのは、信虎・信玄の2代にわたって実に23年を要した。
 天文20年(1551)3月村上義清、小笠原長時は連合して深志城(松本城)の奪還を図るが、信玄は5月には真田幸隆をもって砥石城を落とす。
 この間、武田軍は天文17年(1548)2月、小県の上田原に村上義清と戦い敗れ、天文19年(1550)9月には小県の砥石城を攻めて敗れる(砥石崩れ)等、村上義清を相手に2度の苦い敗戦を経験するが、天文21年(1552)1月には諏訪頼継を甲府に出仕、自刃させ、4月には村上義清の居城・葛尾城を落とし、5月に桔梗原で小笠原長時を破る。そして8月には村上義清が籠もる塩田城を落とす。その後、村上義清は越後の上杉謙信に援を求め、天文22年(1553)から宿命の対決とされる川中島の戦いへと発展していく。一方、天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略した武田晴信は、伊那をほぼ支配下においた。

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