平瀬城
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【城郭の概要】
所在地:松本市大字島内下平瀬
別 名 : −
築 城 :室町時代
初城主:平瀬氏
区 分 :山城
遺 構 :竪堀,土塁,堀切
城 域 : −
     標高 715m(本城)
     比高 146m(本城)
     
     標高 677m(支城)
     比高 107m(支城)



主曲輪背後の大堀切
主曲輪背後の大堀切

【現地への案内】
国道19号線から平瀬地区に入る
詳細位置はコチラ 

【駐車場林道に駐車、1〜2台可
【訪 城】2004年5月
【撮 影】2004年5月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 国道19号から平瀬地区に入り、林道を100m〜200m入った沢の空き地に車を止めて、犀乗沢を詰めると、谷が二股に分かれる所で左手の山が北本城、右手の山が南支城となる。北本城は林道を登ること約10分で尾根上の二の曲輪に出る。
 土塁を越えて主曲輪、さらに三の曲輪と連郭式に曲輪を配置している。三の曲輪から西側に犀川沿いに走る国道19号線が眼下の望め、安曇野方面を一望できる。主曲輪北側には帯曲輪を伴っている。
 二の曲輪背後の尾根は比較的はなだらかで、このなだらかな尾根筋を防御するため6条の堀切と、堀切に伴う竪堀群を配している。山の地形をうまく利用し、緩斜面には堀切、竪堀を配して、理にかなった防御である。
平瀬城から見る安曇野
平瀬城から見る安曇野

【城郭の歴史】
 古代以降この地を領有し統括してきた平瀬氏は鎌倉幕府滅亡後、信府に入る。信濃守護小笠原氏の信任厚く南北争乱時や、平時の生活においても表裏一体の関係で運命を共にしてくる。
 平瀬は小笠原氏にとって、その後も最も重要な拠点の一つであったことが知れる。おそらく平瀬城は南方の犬甘城と共に林城に前後する室町期に相互必要あって築城されたものと考えられる。平瀬城は北の本城、南の支城からなっている。後年天文20年10月24日武田晴信の侵攻にあい落城、その際平瀬方武将204人が命を落としている。武田方により同城は同年10月28日に城割、そして鍬立がなされた。

平瀬城(北本城)
 山田地籍の北部よりほぼ西方へ派生する尾根の先端部分に主要遺構をおく標高716m前後、比高差約140mで南西北の三方は落差の激しい崖状をい示し自然要害の
地選条件を具備している。
 現在遺構の残存状態はよく、大手道を行くと道を断ち切る竪堀、道の両側におびただしい帯曲輪、虎口、武者走り、主郭、二の郭、土塁や石垣の一部、馬出、尾根を断ち切る堀切、厳重な急な山の斜面を刻む収数形の竪堀群、あるいは散開形の竪堀等の施設を認める。
この本城の各所より焼米、石臼、内耳土器などの破片を出土しており戦時における籠城の足跡を覗わせる。

平瀬城(南支城)
 山田地籍の高山嵐から西方へ更に屈折して西北方へ下る尾根筋の先端部分に遺構は残存する。やはり西北東の三方は崖状となり、要害の地に立っている。標高は約650mで犀乗沢をはさみ北の本城を仰ぎ見る位置にある。
 南支城の遺構残存状態もよく主郭は南西北の三方に土塁が残存し、虎口を北にとり、その前面に二の郭をおいている。主郭の東下に腰郭が四面連続し南の尾根に堀切が四連続、西斜面には三条、東斜面は収数形の竪堀郡を認める。 
島内史談会 現地案内板より

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