平賀城
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【城郭の概要】
所在地:佐久市平賀字城平
別 名 :龍岡城
築 城 :中世初期
初城主:伝平賀義信
区 分 :山城
遺 構 :曲輪,石積み,櫓台,横堀
城 域 :200m×750m
     標高 840m
     比高 140m


県指定史跡


主曲輪櫓台
主曲輪の櫓台

【現地への案内】
 国道254号線平賀地区の佐久城山小学校から西に約1.5km
詳細はコチラ

【駐車場佐久宝寿霊園の駐車場に30台駐車可
【訪 城】2005年8月
【撮 影】2005年8月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 平賀城の北、内山峡を走る国道254号線は、古くから上野の下仁田,富岡方面に通じる街道であり、平賀城はこの街道を押さえる位置にある。
 平賀城へは大林寺の背後から尾根伝いに登るか、アベニュー佐久平団地から尾根を登ると大林寺の尾根と合流して平賀城に至るルートがある。
今回は正安寺前の林道を登り、佐久宝寿霊園の駐車場横から登る。このルートは搦手道となるが、比高を稼げる利点がある。(^^)
搦手の曲輪と石積み
石積み


 霊園の駐車場から100mほど下ったところから山中にはいると、いきなり横堀、また曲輪と石積みを確認する。 石積みは1m足らずのものばかりであるが、至る所にあり信濃の城としては特異な城と云える。
 曲輪配置の状態などから、この搦搦手側の曲輪は屋敷地のような印象を持ちながら、5分も登ると、主曲輪下の搦手曲輪に出る。
 主曲輪には6〜7m四方の櫓台があり、また主曲輪搦手側には門柱の礎石と思われるものなど、戦国末期までこの城が使われていたと考えても良さそうである。
主曲輪の北方尾根が大手道で、こちら側には二の曲輪,三の曲輪が配置され、石による階段、も付けられている。
主曲輪下の石積み
主曲輪下の石積み


【城郭の歴史】
 平賀城を居城とする平賀氏は滋野氏系統の根井氏,望月,矢島氏とともに中世初期には佐久の一大勢力であったが、平賀氏は滋野氏系とは異なり、大井氏や伴野氏の系統に属する。
 天文5年(1536)に海の口城を死守した勇将平賀源心の名が「甲陽軍艦」などに見られ、山梨県若神子にはその首塚、海の口城に近い平沢峠には胴塚なるものが残っているが、現在は平賀源心の実在そのものが疑われている。
 平賀氏滅亡の後、平賀城は大井氏の手に落ち、代官の在城するところとなったが、その大井氏の宗家も文明16年(1484)に滅亡し、天文9年以降、平賀城は武田氏の領するところとなる。天正10年(1582)に武田氏が滅んでからの平賀城については不明。

斜面には階段状に曲輪が配置されている




武田軍の信濃侵攻

 甲斐武田の信濃進攻は享禄元年(1528)9月武田信虎が諏訪郡へ侵入、諏訪上社の諏訪頼満・頼隆父子と神戸、境川付近で戦ったのを最初とし、天文5年(1536)11月には佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。この戦いが初陣だった晴信(後の信玄)は知略で海ノ口城を落とす。
 天文9年(1540)5月には、信虎が佐久郡の城を十数城落とし前山城を築き、天文10年(1541)5月信虎は村上義清、諏訪頼重等と結び海野棟綱を攻め、海野平に海野棟綱を破る。同年6月、晴信は父・信虎を駿河今川家に退隠させ、武田の総帥として信濃攻略に向けて全力を傾けていく。
 この頃の信濃は小笠原長時が守護職として任じられていたが、その勢力は北信濃までは及ばず、北信濃は村上義清を筆頭として豪族が入り乱れ、諸豪族は外敵である信玄に対し、協力して立ち向かっていく。
 天文10年頃から北信濃の諸豪族が村上義清を頼ったことから、諏訪の諏訪頼重に加えて、北信濃の村上義清、中・南信濃の小笠原長時と武田信玄との戦いが本格化する。
 天文11年(1542)信玄は一転して伊那の藤沢頼親,小笠原長時と戦い、天文14年(1545)4月に諏訪頼継の高遠城を攻め落とし、高遠城を拠点にして箕輪城(福与城)の藤沢頼親を攻め、天文15年頃には諏訪を制圧する。
 天文16年(1547)佐久郡・内山城の大井貞清に出仕を促し、大井貞清親子は甲府に出仕したのをきっかけに、8月には佐久郡の志賀城を攻め、笠原清繁を破る。翌天文17年(1548)8月佐久郡の田口城を小山田出羽守に攻めさせ、田口良能に加勢した北信濃の諸豪族をことごとく討ち取り、9月には佐久郡を制圧する。享禄元年(1528)に諏訪に侵攻してから諏訪・佐久郡を制圧したのは、信虎・信玄の2代にわたって実に23年を要した。
 天文20年(1551)3月村上義清、小笠原長時は連合して深志城(松本城)の奪還を図るが、信玄は5月には真田幸隆をもって砥石城を落とす。
 この間、武田軍は天文17年(1548)2月、小県の上田原に村上義清と戦い敗れ、天文19年(1550)9月には小県の砥石城を攻めて敗れる(砥石崩れ)等、村上義清を相手に2度の苦い敗戦を経験するが、天文21年(1552)1月には諏訪頼継を甲府に出仕、自刃させ、4月には村上義清の居城・葛尾城を落とし、5月に桔梗原で小笠原長時を破る。そして8月には村上義清が籠もる塩田城を落とす。その後、村上義清は越後の上杉謙信に援を求め、天文22年(1553)から宿命の対決とされる川中島の戦いへと発展していく。一方、天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略した武田晴信は、伊那をほぼ支配下においた。

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