福与城
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【城郭の概要】
所在地:下伊那郡箕輪町福与
別 名 :箕輪城,鎌倉城
築 城 : −
初城主:藤沢氏
区 分 :平山城
遺 構 :横堀
城 域 :300m×400m
     標高 710mm
     比高 40m
県指定史跡

空堀
主曲輪と北曲輪間の空堀

【現地への案内】
国道153号線木下栄町の信号を東入る、県道19号線三日町交差点を南下、箕輪南小学校横を東に入る。
詳細位置はコチラ 

【駐車場専用駐車場に20台
【訪 城】2003年5月
【撮 影】2003年5


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 萱野高原の丘陵地が西を流れる天竜川に落ち込む河岸段丘の先端に、南向きに築城されている。西、北および東側は段丘の崖状斜面で、西から北にかけては比高差30〜50mの高さがある。
縄張り図

曲輪は大手を開いた南側から、南城,本城第1郭,本城第2郭と北城と、大きくは4つの曲輪を配置し、最も高所にある本城第1郭を主曲輪としている。
屋敷跡と考えられている南城は畑地となっており、南城と本城の間には横堀を配し、この横堀を境に本格的な城郭遺構となる。この横堀は西側の段丘の斜面に落ち込む。
本城と北城の間にも10mにもおよぶ幅の横堀が掘られており、北城が独立性が高い。
南城から西には冠雪した中央アルプスが望め、なだらかな斜面には野草の花が咲き乱れ、城と共に伊那谷の春を満喫した。

【城郭の歴史】
 この城跡は天竜川東岸段丘の緩斜面を利用した中世の平山城跡である。
 この城の創設は鎌倉時代と伝えられるが、城主についてはつまびらかでない。天文年代(1532〜1555)になると藤沢頼親が城主として勢力を張ったが、武田晴信(信玄)の伊那攻略にあり、天文14年(1545)に落城し、城は焼失した。
 城跡は幅が東西約330m、南北約440mで、本城,北城,南城に区分されている。本城は第1・第2郭に分かれ、空堀を隔てて北城に対しやや高低差があり、物見櫓といわれる場所もあって、遠見には好適の地点であった。
 武田氏によって城の建物の焼却があったものの当時の遺構を良く残しており戦国時代の居館と軍事的防防塞の機能を兼ね合わせて平山城の様相を知ることが出来貴重な城跡である。
長野県教育委員会


武田軍の信濃侵攻

 甲斐武田の信濃進攻は享禄元年(1528)9月武田信虎が諏訪郡へ侵入、諏訪上社の諏訪頼満・頼隆父子と神戸、境川付近で戦ったのを最初とし、天文5年(1536)11月には佐久郡の平賀源心の海ノ口城を攻める。この戦いが初陣だった晴信(後の信玄)は知略で海ノ口城を落とす。
 天文9年(1540)5月には、信虎が佐久郡の城を十数城落とし前山城を築き、天文10年(1541)5月信虎は村上義清、諏訪頼重等と結び海野棟綱を攻め、海野平に海野棟綱を破る。同年6月、晴信は父・信虎を駿河今川家に退隠させ、武田の総帥として信濃攻略に向けて全力を傾けていく。
 この頃の信濃は小笠原長時が守護職として任じられていたが、その勢力は北信濃までは及ばず、北信濃は村上義清を筆頭として豪族が入り乱れ、諸豪族は外敵である信玄に対し、協力して立ち向かっていく。
 天文10年頃から北信濃の諸豪族が村上義清を頼ったことから、諏訪の諏訪頼重に加えて、北信濃の村上義清、中・南信濃の小笠原長時と武田信玄との戦いが本格化する。
 天文11年(1542)信玄は一転して伊那の藤沢頼親,小笠原長時と戦い、天文14年(1545)4月に諏訪頼継の高遠城を攻め落とし、高遠城を拠点にして箕輪城(福与城)の藤沢頼親を攻め、天文15年頃には諏訪を制圧する。
 天文16年(1547)佐久郡・内山城の大井貞清に出仕を促し、大井貞清親子は甲府に出仕したのをきっかけに、8月には佐久郡の志賀城を攻め、笠原清繁を破る。翌天文17年(1548)8月佐久郡の田口城を小山田出羽守に攻めさせ、田口良能に加勢した北信濃の諸豪族をことごとく討ち取り、9月には佐久郡を制圧する。享禄元年(1528)に諏訪に侵攻してから諏訪・佐久郡を制圧したのは、信虎・信玄の2代にわたって実に23年を要した。
 天文20年(1551)3月村上義清、小笠原長時は連合して深志城(松本城)の奪還を図るが、信玄は5月には真田幸隆をもって砥石城を落とす。
 この間、武田軍は天文17年(1548)2月、小県の上田原に村上義清と戦い敗れ、天文19年(1550)9月には小県の砥石城を攻めて敗れる(砥石崩れ)等、村上義清を相手に2度の苦い敗戦を経験するが、天文21年(1552)1月には諏訪頼継を甲府に出仕、自刃させ、4月には村上義清の居城・葛尾城を落とし、5月に桔梗原で小笠原長時を破る。そして8月には村上義清が籠もる塩田城を落とす。その後、村上義清は越後の上杉謙信に援を求め、天文22年(1553)から宿命の対決とされる川中島の戦いへと発展していく。
 一方、天文23年(1554)、小笠原信貞の鈴岡城を攻略した武田晴信は、伊那をほぼ支配下においた。

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