田丸城
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【城郭の概要】
所在地:度会郡玉城町田丸
別 名 :玉丸城
築 城 :建武3年(1336)
初城主:北畠親房
区 分 :平山城
遺 構 :石垣,土塁,堀,堀切,竪堀,天守台
城 域 : −

県指定史跡

天守台
天守台
車
【現地への案内】
 国道42号線仁田交差点から県道13号線を東、玉城町役場前
詳細コチラ 

【駐車場玉城町役場に駐車
【訪 城】2003年1月
【撮 影】2003年1月

メモ
評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★☆☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 田丸城は熊野街道が通る横の小さな丘に南から北に二の丸,本丸,北の丸を直線上に連ねた連郭式で、三の丸を二の丸、本丸の東側に配し、この部分は梯郭式の縄張りをもつ。
 二の丸から本丸へは土橋を経由し、本丸南側の虎口に至る。本丸の北側には石垣造りの天守台が設けられ、本丸周囲に木々がないこともあって天守台からは南勢を一望でき、和田山町の天空の城・竹田城を彷彿とさせる。
 本丸虎口は西側にもあり、北の丸へはこの虎口を経由して入る。ふたつの虎口は「折れ」を入れてあるものの中世城郭の造りに近い。
 北の丸中央部には稲荷社が祀られ、周囲には高さ0.6〜0.8mほどの土塁を巡らしている。
二の丸、本丸は石垣造りであるが、北の丸だけは東面を除いては土を削り取った切岸のままで、更に北側には堀底幅6〜7mにも及ぶ堀切が設けられ、北の丸だけは中世城郭の造りがそのまま残っている。非常に珍しく貴重な遺構といえる。三の丸は現在、玉城中学が建てられており、当時の面影を忍ぶものはない。
城域周囲には堀を巡らしているが、東側は石垣造りの二重の水堀で、北〜西〜南にかけては空堀としている。この空堀は堀幅も十分に広く見応えがある。
北の丸北側の堀切
堀切
ここでも田丸城がもつ中世城郭の一面を観ることが出来る。

 田丸城は石垣造りの近世城郭の顔を持ちながら、連郭式の縄張りや虎口形態、堀切及び掻き揚げの空堀など、中世城郭の特徴を併せ持つ城として非常に興味深い。

【城郭の歴史】
 田丸(玉丸)城は延元元年(1336)後醍醐天皇が吉野還幸のとき北畠親房がこれに呼応挙兵するために南勢の拠点として築いたものである。
 神領を領有するために南北両朝はしばしばこの城を中心に争奪戦を繰り返したが合一の後は北畠氏一族がここに居城、田丸御所となった。

 室町末期、織田信長が伊勢攻略の時、次男信雄を伊勢国司北畠氏の養子として和睦、南勢五郡を制し、天正二年(1575)冬、信雄は大河内城から田丸城に移った。この時、田丸城を大改修し三層天守閣を築き現在の規模を整えたが、火災により天守を焼失、信雄は松ヶ島城に移った。以後。稲葉氏、藤堂氏、久野氏がこれを領したが明治維新、廃城により御料林(国有地)に編入。
 昭和3年5月にいたり村山龍平氏(旧田丸城領士族・朝日新聞創始者)の篤志により旧田丸町所有地となり城山公園として、これを開放した。

 当城はいわゆる平山城の初期のもののひとつであり、昭和28年三重重要文化財に指定され、石塁などの昔日の面影を今に伝え絶えることのなく現代につながる貴重な城跡である。
玉城町 現地案内板より

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