大河内城
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【城郭の概要】
所在地:松阪市大河内町城山
別 名 : −
築 城 :応永22年(1415)
初城主:北畠顕雅
区 分 :山城 
遺 構 :堀切,土塁
城 域 :350m×300m

県指定史跡

切岸
中世城郭の名残を残す切岸
車
【現地への案内】
国道166号線、大河内小学校前の信号付近から西蓮寺へ
詳細コチラ 

【駐車場】路上駐車
【訪 城】2004年1月
【撮 影】2004年1月

メモ
評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 県道757号線を福泉寺の前を通り、伊勢自動車道下に車を置き、地元の人に聞くと目の前の南の山が大河内城だという。本来は南側に道があ利標識もあるというが、この時既に4寺30分、既に薄暮がかかっている、時間がないので、ままよと北斜面を直登。マムシ谷西側の支尾根を40mほど登ると西の丸に出る、その間堀切1条と階段状の曲輪2段を確認。、
西の丸に出てマムシ谷と称される堀切にかかる木橋を渡って本丸に行くが、西の丸よりも本丸の方が低い位置にある。
本丸から北に延びる尾根に横堀があり、尾根には曲輪が配されているがブッシュが激しく断念。本丸から馬場を経て矢津川の川岸に出る、こちら川が搦手と表示されている。ここで、ようやく地形を確認すると、矢津川と阪内川の合流点に築かれた大河内城が三方を川に囲まれた要害地形であった。

 地元の人に聞くと、マムシ谷というのは永禄11年に織田軍が攻めてくる時に、城の防御を兼ねてマムシを放した所から由来があると言うことである。
東の桂瀬地区に茶臼山と言う山があり、そこに信長が本陣を構えたという。そんなこともあって、大河内地区と桂瀬地区は今でも仲が良くないとか。(^^)
大河内地区の人にとっては、正月にしめ飾りなどをしないという。どうも織田軍に攻められて大河内城が落城したのが1月ということで、おめでたくないと云うことらしい。
400年以上も昔の戦の影響が、今でもその地区の風習として残っている例としては、この上なく面白い。

【城郭の歴史】
 城は北へ突き出た標高110m余りの丘陵突端部に築造されており、東裾と北裾とを阪内川と矢津川が洗い、西側と南側には深く谷が入って自然に要害の地を形成している。

 応永22年(1415)、北畠満雅が阿坂城で室町幕府に反旗を翻したとき、築城して弟顕雅を籠城させたという。以後、顕雅の子孫が居城し、大河内御所と称した。

 永禄12年(1569)織田信長が南伊勢攻略の大軍を発したとき、伊勢国司北畠具教は本拠を多気(一志郡美杉村)よりこの地に移し、補強して信長の軍勢を迎え撃った。
 8月より1ヶ月余りも戦いは続いたが、北畠軍は利あらず、信長の二男信雄に北畠の家督を譲る条件で信長の軍門に降り、具教は城を退去した。天正4年(1576)、信雄は南伊勢を統治する拠点を田丸城(度会郡)に移し廃城とした。
 現在は本丸跡・二の丸跡・西の丸跡と呼ぶ台状地や平坦な馬場跡、土塁や堀切が城の面影を残すにすぎない。
松坂市教育委員会

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