山崎城(天王山城)
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 城郭の概要
所在地:乙訓郡大山崎町天王山
別 名 :天王山城,天王山宝寺城,鳥取尾山城
築 城 :南北朝初期
初城主:赤松則祐
区 分 :山城
遺 構 :土塁,井戸
     標高 270m
     比高 240m
国指定史跡


 現地への案内
交通機関は車を利用
JR山崎駅から約1時間
 詳細位置はコチラ
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 駐車場
町営駐車あり

【訪 城】2001年10月,2007年5月
【撮 影】2001年10月,2007年5月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り
普請 ★★
体力消耗度 ★★
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

天守台
山頂の天守台

 現地の状況
 山崎城は天王山の山頂に築かれており、天王山山頂まではJR山崎駅から約1時間。斜度もきつく、結構タフな山であるが、途中の宝積寺や幕末の十七烈士の墓、あるいは時折木々の間から見える眺望が疲れを忘れさせてくれる。

 酒解神社の手前あたりから、いくつもの曲輪らしき遺構を確認するが、削平状態は良いとは云えず、中世における地方豪族の山城に登っているような錯覚にとらわれること度々。

 山頂の本丸下にようやく織豊系城郭らしき虎口があった。本丸では人頭大の石がまばらに散乱しており、彫りの入った礎石らしきものを確認するが、これが長浜城を築き、天正11年には賤ヶ岳で柴田勝家を破り、一時的とはいえ大阪城を築城するまでの間、羽柴秀吉が居城としていた城とは思えなかった。

 羽柴秀吉が山崎城を居城とするのは、天正10年(1582)の清須会議の領地再分配で山城国を領土としてからであるが、秀吉にとっての山崎城は柴田勝家との戦いにおける戦略的な拠点でしかなかったのではないだろうか。

 秀吉は北国街道の隘路・賤ヶ岳で柴田勝家と一戦を交え、万が一にも破れた場合は、明智光秀との戦いで地理を知り尽くした西国街道の隘路・山崎で再度の戦いを挑むつもりで山崎の地を押さえる天王山に一時的な居城を置いたのではないか・・・・・・・。

 柴田勝家に賤ヶ岳で敗れた時に再戦を挑むのは、安土城でも瀬田の唐橋でもなく、この山崎の地でしかなかった。
 それは兵力に劣る明智光秀が、羽柴秀吉との戦いをこの山崎に選んだのと同じ理由であることは云うまでもない。

土塁

 城郭の歴史
 山崎城は西国街道を眼下に見下ろす北摂山塊最東端、天王山の山頂に築かれ、山陽道を摂津国から入京する喉元を訳する要衝の地である。

天正10年(1582)6月2日、本能寺で織田信長が明智光秀の謀反によって倒れた後、備中国高松城から京都に迫った羽柴秀吉,神戸信孝らの連合軍に対して、明智光秀はいったんは男山城と山崎城を占拠するという優位に立ちながら前日になって淀城勝竜寺城へ引き下がるという消極作をとったために、天王山を占拠した秀吉方が一挙に優位となった。
その後、秀吉は翌11年6月に摂津大阪城に移るまで山崎城を居城とした。





近隣の観光
離宮八幡宮
京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字西谷21-1
 荏胡麻(えごま)油発祥地で、生産者たちは八幡宮を本所として油座を組織し、全国の油専売権を握り、販売を独占し栄えてた。

 司馬遼太郎著書の国盗り物語で、京都山崎の油商人・山崎庄五郎(後の斉藤道三で、別名を西村勘九郎、松波庄五郎、または長井新九郎と名乗ったとされる)が美濃一国を支配し稲葉山城を居城としたことは有名。
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