山科本願寺
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 城郭の概要
所在地:京都市山科区西野山階町
別 名 : −
築 城 :文明10年(1478)
初城主:蓮如兼寿
区 分 :平城
遺 構 :土塁,堀
城 域 :450m×750
     標高 40m


 現地への案内
交通機関は車を利用
地下鉄東西線、東野駅下車約10分
 詳細位置はコチラ
mapfan
 駐車場
駐車場は無し

【訪 城】2003年4月,2007年5月
【撮 影】2003年4月,2007年5月

評価項目 見所評価
選地 ★☆☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

山科本願寺の土塁
山科中央公園の土塁

 現地の状況
 山科本願寺は浄土真宗の本山で、山科川,野色川、および安祥寺川を堀と見立てた地形に建てられており、現在でも山科区西野山階町の奥田邸、および山科中央公園に土塁の一部が残されている。特に山科中央公園の土塁は高さ6〜8m、長さ50〜60mの巨大なものである。

 山科中央公園東側には蓮如上人の廟所、西側の住宅地の一画には蓮如上人御往生之地があり、音羽伊勢宿町には蓮如の隠居所とも伝えられている南殿跡など蓮如上人の縁の地がある。

山科本願寺の土塁
奥田邸の土塁


山科本願寺の概要
山科本願寺の概要


 城郭の歴史
 浄土真宗中興の祖・蓮如は、文明3年(1471)7月越前と加賀の国境付近の吉崎の地に道場(吉崎御坊)を開いた。
 辻説法や道場における布教に加え、「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」という表現で名号を重視する浄土真宗の精神を示すと共に、親鸞の難しい教義を庶民大衆が信心を理解し、受け入れやすい平易な教えを説いた。
 また、門徒宛てに直筆の御文といった手段で浄土真宗の教えを坊主や門徒のすみずみに行き渡らせた。

 文明6年(1474)加賀の一向一揆衆は応仁・文明の乱で東軍に属した兄・富樫政親と西軍に属した弟・富樫幸千代の兄弟による政権争いに端を発した戦いの中で、生活に苦しむ門徒達は富樫政親と共に専修寺門徒や富樫幸千代と戦う等、その行動は蓮如の意図に反して次第に過激化していく。

こうした状況の中では蓮如は、文明7年に吉崎御坊を退去し、文明10年(1478)、名主海老名氏から寺地の寄進を受けた山科の地に御坊の造営した。当時の様子が「二水記」には、「寺中広大無辺,荘厳ただ仏国のごとし」と記されている。
この本願寺を御本寺北殿と呼ぶのに対して,東方の音羽に築かれた殿舎を南殿と称した。

 天文元年(1532)細川春元との対決により、延暦寺宗徒、近江守護,法華一揆や連合軍の猛攻にさらされ8月20日に陥落。以後浄土真宗の本山は大阪石山に移った。




近隣の史跡
蓮如上人の廟所
蓮如上人の廟所
 文明10年(1478)山城で山科御坊の造営、明応6年(1497)には大坂御坊を造営し、精力的な活動を続けた蓮如は明応8年(1499)85才で山科の地で入寂した。




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