山城 二条古城
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 城郭の概要
所在地:京都市上京区烏丸出水〜新町丸太町
別 名 : −
築 城 :永禄12年(1569)
初城主:織田信長
区 分 :平城
遺 構 :石垣,掘
城 域 :390m×390m
     標高 50m


 現地への案内
交通機関は車を利用

 詳細位置はコチラ
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 駐車場
 路上駐車
【訪 城】2007年4月
【撮 影】2007年4月

評価項目 見所評価
選地 ★☆☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★☆☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

旧二条城の石碑
旧二条城跡

 現地の状況
 旧二条城は現在の二条城の北東約1km、平安女学院中・高校の敷地の一角(室町東立売)に旧二条城跡を示す石碑が建てられている。
その範囲は、南は丸太町通りから北は中長者通り、東は現在の京都御所にかから、西は新町通り辺りまでの範囲と推定されている。
 東側には烏丸通りを挟んで京都御所があり、まさに京の中心地に築城されていたことがわかる。
昭和49年に地下鉄烏丸線の工事の際に、石垣が発見され、その石垣の一部が京都御苑椹木門内及び現二条城内に復元されている。


現二条城に移築された石垣
 築城当時、日本において布教活動をしていたルイス・フロイスの記録によれば、旧二条城というのは現在の二条城以前に、永禄12年(1569)2月に工事を開始し、常時1万2000人から2万5000人の人役を投入し、70日間ほどでほぼ全容を整えたということであり、期間を極めて短くするために石垣の石材に近郷の石仏、板碑、灯籠等を徴集し積み込んだと記載されているが、その通りの石仏などが、この遺構に見られる。

 その後、信長は義昭を追放し、東宮誠仁(さねひと)親王を迎え入れ、「二条御所」とも呼ばれていた。 天正10年(1582)の本能寺の変において明智勢に攻め入られ、信長の長子・信忠が自刃し、城郭建築は焼失した。 この石垣は京都市高速鉄道烏丸線(地下鉄)建設に際し、烏丸下立売から発見されたものである。石垣は「犬走り」を挟んで上下二段に分かれて北面し、東西方向に走り、南東方向に折れる角を持つ。この遺構は移築に際し、方角が90度ほど変わったが、元来は東西方向が長く、八間強を測り、普通の石材約150個の他に、40個ほどの石仏・板碑・礎石が使われている。 

京都市  現地案内板より

 城郭の歴史
 永禄12年(1569)、三好三人衆によって将軍・足利義昭の居館本國寺が襲撃されたことで、信長は足利義輝の近衛御所のあった地に旧二条城の築城をおこなった。
 築城の様子は言継卿記によれば、尾濃勢江伊若丹摂河泉和播の13ヶ国より軍夫を動員し、約2ヶ月間で三重の堀と石垣造りの城を築城したとされている。
天正元年(1573)7月、室町幕府の滅亡とともに廃城となった。廃城後、旧二条城の石垣は安土城建設のために転用されたと言継卿記は伝えている。

 旧二条城については、織田信長が足利義昭のためにつくった二条城、あるいは東宮誠仁(さねひと)親王を迎え入れるためにつくった二条御所をさす説と、足利義昭のためにつくった二条城だけをさす説があり、定かではない。


近隣の史跡
二条城
 慶長9年に徳川将軍家の上洛の際の居館として築いたもので、平時は豊臣秀吉政権の京屋敷であった聚楽第の機能を継承した。

二条陣屋
 豊臣秀吉に仕えて伊予今治7万石の城主となった小川土佐守祐忠の長男・萬屋平右衛門が、1670(寛文10年)年頃住居として建てたもの。数寄屋建築として国宝に指定されている。

旧本能寺
 天正10年6月2日明智光秀の謀反により信長自刃の地

本能寺
 旧本能寺は織田信長とともに炎上、天正17年(1589)豊臣秀吉によって、この地に再建された。

 現在の本能寺には織田信長の墓と共に、本能寺の変で戦死した戦没者の合祀碑が建てられている。


南蛮寺
 織田信長の時代にヤソ会によって建てられ、織田信長の保護もあって信者は増えたが、天正15年(1587)豊臣秀吉はキリスト教弾圧に転じた。南蛮寺もこの時に破壊された。

織田信長と織田一族のゆかりの史跡


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