山城 二条城
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 城郭の概要
所在地:京都市中京区堀川西入二条城町
別 名 : −
築 城 :慶長7年(1602)
初城主:徳川家康
区 分 :平城
遺 構 :石垣,掘,門,櫓,御殿
城 域 :650m×430m
     標高 40m
国指定史跡,国宝


 現地への案内
交通機関は車を利用

 詳細位置はコチラ
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 駐車場
 専用駐車場を利用
【訪 城】2004年4月
【撮 影】2004年4月

評価項目 見所評価
選地 ★☆☆
縄張り ★☆☆
普請 ★★★
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


お勧め度





東大手門
二条城東大手門

 現地の状況
 京都市内に堀で囲まれた城があること自体、あまり似つかわしくなく、違和感を持って東大手門から入ると、唐門,二の丸御殿と城内にありながら京都らしい建築物があり、心を和まさせてくれるが、内堀に掛けられた西橋を渡り本丸に入ると、本丸御殿とともに石垣造りの本丸天守台と本格的な城としての顔を覗かせる。
 二条城を一言で言えば、公家文化と武家文化の融合した城と表現するのが最も適切な表現だろう。

唐門
唐門


二の丸御殿
二の丸御殿

 城郭の歴史
 二条城は豊臣秀吉政権の京屋敷であった聚楽第の機能を継承し徳川将軍家の上洛の際の居館として築いたものである。慶長7年(1602)5月に築城が開始され、同9年3月には殿舎がほぼ完成し、同11年4月頃まで普請は続けられたとされる。
 元和2年(1616年)に家康が没した後、元和5年(1619年)に徳川秀忠は、娘和子の後水尾天皇への入内に備え、改修を行った。このときの縄張は、秀忠と藤堂高虎によるものである。
 慶応2年(1866)徳川慶喜が当城で将軍宣化を受け、翌3年10月に大政奉還が上表された。

 城全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿が国宝に、また二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。唐門は二の丸御殿の正門とともに伏見城の遺構と伝えら れている。
 本丸には、もとは5層の天守閣があったが落雷で焼失し、現在の本丸御殿は京都御所にあった旧桂宮御殿を移築したもの。



近隣の史跡
二条古城
 織田信長は、永禄12年(1569)三好三人衆によって将軍・足利義昭の居館本國寺が襲撃されたことで、足利義輝の近衛御所のあった地に築城したもので、現在の二条城とは別のもの。

二条陣屋
 豊臣秀吉に仕えて伊予今治7万石の城主となった小川土佐守祐忠の長男・萬屋平右衛門が、1670(寛文10年)年頃住居として建てたもの。数寄屋建築として国宝に指定されている。

妙顕寺城
 天正2年(1583)9月豊臣秀吉は妙顕寺を移転させ二条新邸を構築。天正14年聚楽第をつくるまで京都の政庁とした。

旧本能寺
 天正10年6月2日明智光秀の謀反により信長自刃の地

本能寺
 旧本能寺は織田信長とともに炎上、天正17年(1589)豊臣秀吉によって、この地に再建された。

 現在の本能寺には織田信長の墓と共に、本能寺の変で戦死した戦没者の合祀碑が建てられている。


南蛮寺
 織田信長の時代にヤソ会によって建てられ、織田信長の保護もあって信者は増えたが、天正15年(1587)豊臣秀吉はキリスト教弾圧に転じた。南蛮寺もこの時に破壊された。

織田信長と織田一族のゆかりの史跡


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