聚楽第
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 城郭の概要
所在地:京都市上京区一条堀川〜千本丸太町付近
別 名 :内野御構
築 城 :天正14年(1586)
初城主:豊臣秀吉
区 分 :平城
遺 構 :堀跡,井戸
城 域 : −
     標高 50m



 現地への案内
交通機関は車を利用
上京区中立売智恵光院西
 詳細位置はコチラ
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 駐車場
駐車場はなし
【訪 城】2007年5月
【撮 影】2007年5月

評価項目 見所評価
選地 ★☆☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


聚楽第跡の石碑

 現地の状況
 聚楽第跡を示す石碑は、上京区中立売智恵光院の一筋西の南東隅に建てられている。
京都市民は聚楽第、あるいは豊臣秀吉に対して興味がないのか、近所に住んでいる人でも、石碑の位置についてはご存じない。(^^:

 聚楽第の遺構といえば、唯一残されているのが井戸の「梅雨の井」であるが、聚楽第の石碑から南へ約400m、下立売通知恵光院上る一筋目西入るの松林寺には当時の堀の遺構を確認することができる。松林寺の境内、および墓地は道路よりも3mほど低く、その幅約30mほどがしっかりと残されている。

松林寺境内


松林寺の墓地と駐車場

松林寺はコチラ 
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 城郭の歴史
 聚楽第は豊臣政権の政庁として営まれたもので、「多聞院日記」の天正14年2月27日の条に「去廿一日ヨリ内野御構普請」とあるのが初見とされる。

 大阪城築城と並行して進められ、役夫は10万人をしのぐと推定されており、規模は不明だが、堀の全長は千間、深さは3間で幅員20間とされている。

 その位置については、諸説があり、「山城名跡巡行誌」では一条以南丸太町以北、大宮以西千本以東とし、「京羽二重織留」では、南北を二条〜一条、東西を堀川〜内野としている。

 文禄4年(1595)7月、城主豊臣秀次が高野山に幽せられ、ついで自害させられたことにより破却され、大半の建物が伏見城に移建された。
なお、大徳寺の唐門、および西本願寺飛雲閣が聚楽第の遺構であるという伝承は、近年の解体修理の際の調査によって否定されている。

 現在、上京区松屋町通り下長者町上ル東入ルに残っている「聚楽の井戸」は聚楽第図屏風にある「梅雨の井」の跡と伝えられている。




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聚楽第の史跡
妙覚寺の山門
 妙覚寺の寺伝によれば、妙覚寺の山門は聚楽第の裏門を寛文3年(1663)に移築したものである。
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豊臣秀次関連史跡
近江八幡山城
滋賀県近江八幡市宮内町

 豊臣秀次は、天正13年(1585)の紀伊雑賀攻め、および四国征伐の軍功で近江八幡に43万石を与えられた。

 八幡山城山頂には、文禄5年(1596)に秀次の母"とも"(日秀尼)が、我が子秀次の菩提寺として京都・嵯峨野村雲に創建した瑞龍寺本堂が移築されている。

豊臣秀次の墓所
 秀次の墓所は京都の三条木屋町南東角の瑞泉寺内にある。

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