船岡山城
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 城郭の概要
所在地:京都市北区紫野船岡町
別 名 : −
築 城 :寛文10年(1670)
初城主:山名宗全か
区 分 :平山城
遺 構 :曲輪,堀
城 域 : −
     標高 110m


 現地への案内
交通機関は車を利用

 詳細位置はコチラ
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 駐車場
専用駐車場を利用
【訪 城】2005年10月
【撮 影】2005年10月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


堀状遺構

 現地の状況
 船岡山の北側、および東側に登り口がある。車で立ち寄る場合は北大路通りに面した北側の専用駐車場を利用すると良い。
 約10分ほどで山頂に着く、この間、曲輪と堀状の遺構が確認できるが、堀なのか塹壕として使われたのかは不明。
 船岡山の山頂からは南方の京都市内を一望でき、応仁の乱の際に西軍(山名宗全)の陣地として使われたことが至極当然と実感。
ここなら、東軍の細川勝元の陣であった今川邸は見通すことができたはず。


 城郭の歴史
 今から1200年の昔、京都に都が定められる際、船岡山が北の起点となり、真南が大極殿・朱雀大路となった。これは陰陽五行思想・風水思想に基づいて船岡山が大地の気が溢れる玄武の小山であるとされたためである。

 戦国時代の応仁・文明の乱の際、この船岡山が西軍の陣地になり、船岡山一帯はその後も西陣の名で呼ばれている。
 天正10年6月2日織田信長が本能寺で没すると羽柴秀吉は時の正親町天皇の勅許を得て主君・信長公の御霊をこの船岡山に祀った。明治2年明治天皇がここに健勲神社を創建された。
健勲神社

 
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近江の城郭



応仁の乱史跡
山名宗全邸宅跡
 室町幕府八代将軍・足利義政は子供がなかったために弟・義視を後嗣にしようとしたが、その後、義政の夫人富子に義尚が生まれたため、将軍職を廻る後継者争いが起こり、応仁元年(1467)応仁の乱へと発展した。
義尚を擁する山名宗全はこの邸宅を本陣として室町今出川の花の御所に陣を置く義視方の細川勝元と東西に分かれて11年間におよぶ戦いを繰り広げた。

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京都市上京区堀川上立売下る一筋目西入北側

応仁の乱勃発の地
文生2年(1467)正月18日早朝、上御霊神社の森の合戦から応仁の乱は始まった。17日の夜、畠山政長は自宅を焼いて一族と共に兵約二千を率いて上御霊神社に布陣。翌18日早朝に政長と畠山家の家督を争っている義就が兵三千余で攻撃をかけた。
義就には朝倉孝景、山名宗全が加勢し、長政が頼みとする細川勝元は、この時点では動かず長政は敗退した。これが応仁の乱の最初の合戦である。
年号が応仁と改まった3月、細川,山名の両陣営が味方を集め5月から上京を中心に東西両軍の全面的な戦いに入った。

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京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊堅町495

百々橋跡
 応仁元年(1467年)5月、応仁の乱最初の大合戦にさいし、この橋には細川勝元は以下の三宅、吹田、茨木、芥川氏など攝津の武将が布陣し、山名方の平賀氏と激しく戦った。 ここから、南の方一条戻り橋付近までがその時の主戦場となり、付近一帯が戦火で焼失した。 それから40年後、細川勝元の子政元の跡嗣をめぐって、養子の澄元と澄之が対立、永正4年(1507)6月23日澄之が香西元長(嵐山城主)、 薬師寺長忠らと謀って養父政元を殺し、翌24日澄元を攻めて、この橋で激しく戦った。
 現在では小川はなく、当時の百々橋に使われていた橋脚石が置かれている。

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京都市上京区小川通寺之内

織田信長と織田一族縁の地