丹波 福知山城
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 城郭の概要
所在地:福知山市内記
別 名 :横山城,臥竜城,八幡城
築 城 : −
初城主:明智光秀
区 分 :平山城
遺 構 :復興天守、多聞櫓、石垣、曲輪
城域 : −
 現地への案内

国道9号線東堀の信号を北へ約1km
JR山陰線、福知山駅から徒歩10分

詳細位置はコチラ 

 駐車場
有料駐車場を利用

【訪 城】
1999年,2008年5月
【撮 影】2008年5月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り




復興された天守閣

 現地の状況
  現在の福知山城天守閣は昭和61年(1986)に絵図,古絵図,資料等を元に復興されてもので寸法までは旧状の状態ではないが、雰囲気のある造りがなされている。
また、福知山城公園内にある隅櫓と多聞櫓を模した佐藤太清記念美術館が脇役として城の雰囲気造りに一役買っている。

 福知山城の石垣には、五輪塔や宝篋印塔などの転用石が多く使われており、この転用石については築城当時石材が無かったために光秀が近在のものを集めた。あるいは城を守る宗教的なところからきているなどの説がある。

 現在残る城郭と城下町の形態は有馬豊氏の時代と推定され、天守裏には江戸期の城主であった朽木種昌を祀る朝暉(あさひ)神社、および深さが50mあるといわれる井戸(豊磐井)がある。
  なお、天守台,本丸石垣は光秀以降3回の増築がおこなわれていることが確認されており、福知山城は慶長5年(1600)頃に完成したとされている。

転用石が多用された天守台石垣

 城郭の歴史
 福知山城は由良川と土師川が合流する左岸の比高40mの丘陵地に築かれている。福知山城の創築は天田郡の豪族・塩見氏がこの地に横山城を築いたものである。

 信長の命を受けて丹波平定の軍を起こした明智光秀は、天正3年(1575)亀山城を攻略すると丹波口を平定すると、天正7年(1579)には横山城を落とし、光秀は功績を認められ丹波一国を与えられた。
 丹波を領した光秀は、丹波,丹後の経営にあたる織田軍の前線基地として、福知山の地に自らが縄張りをおこない築いたのが福知山城である。
当時、光秀は亀山城を居城としていたため、福知山城には甥の明智秀満を入れおいた。

 天正10年(1578)6月2日本能寺に信長を攻めた光秀は、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、光秀による丹波の統治はわずか3年であった。

 天正14年(1586)秀吉の養子である羽柴秀勝のものとなり、城代として秀吉の正室北政所の叔父にあたる杉原七郎左衛門家次が3万石で配された。
その後は青山勘兵衛、桑山修理が城代を務め、小野木重勝が3万1千石で入城したが関ヶ原の戦いでは西軍に属し敗れて切腹。その後有馬豊氏が8万石で入封して、近世城郭として改修した。

 以後、城主は岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房と替わり、寛文9年(1669)からは朽木伊予守種昌が土浦城より3万2千石で入封し、13代続き明治を迎え、明治5年(1873)廃藩置県に伴い廃城となった。

 建造物としては、二の丸から本丸に移築された銅門(あかがねもん)脇番所(多聞櫓)が現存する。
また、観瀧寺、正眼寺、法鷲寺、明覚寺、および瑞林寺の山門として、それぞれ城門が移築され現存する。

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