篠山城
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 城郭の概要
所在地:篠山市北新町
別 名 : −
築 城 :慶長14年(1609)
初城主:松平康重
区 分 :平城
遺 構 :復元御殿、曲輪、石垣、堀
城 域 :400m×400m


 現地への案内
交通機関は車を利用
篠山市役所南
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 駐車場
大手門前と二の丸に無料駐車場
【訪 城】2000年9月
【撮 影】2000年9月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

篠山城本丸天主台の石垣
篠山城本丸天主台の石垣

 現地の状況
 篠山城は篠山盆地のほぼ中央部、笹山とよばれる小丘陵に築かれた平山城で、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が大坂城攻めと西国大名への抑えの拠点とすることを目的として、慶長14年(1609)に15ヶ国、西国の20大名を動員して築かせた城である。

 この篠山城の特徴のひとつとしては、北の大手門、東門、南門と3つの虎口を設け、それぞれに角馬出の曲輪を設けていることがあげられる。
大手門の馬出は大正12年(1923)に埋め立てられ、現在は公園と駐車場になっているが、東門と南門の馬出は今も残されている。
 また、本丸と二の丸を高石垣造りで連郭とし、周囲を内堀で囲み、その外側に廻らされた約400m四方の三の丸と幅40m外堀が残っている。

 本丸天主台の石垣は高さ17m、本丸は14m、二の丸は12mの高石垣を積んでおり、三の丸北側のグランドから見る一連の石垣は圧巻である。

築城当時の篠山城の縄張り図
築城当時の篠山城の縄張り図

 城郭の歴史
 徳川家康がこの篠山の地に天下普請の城を築いたのは、この地が京から山陰、山陽地方へ、また大坂、丹後方面へ通じる交通の要衝であったからに他ならない。

 築城に際して、縄張りは藤堂高虎、普請総奉行は姫路城を築いた池田輝政と当代の第一人者があたった。
「篠山旧記御城取立」などの記録によると、人夫は約8万人が動員され、築城工事は慶長14年3月9日に地鎮祭、9月中旬には石垣普請の大略が完成。12月26日には松平康重入城したとされ、約10ヶ月間の短期間で築城された。

 篠山城には天守閣が建てられなかったが、その理由としては、城が完成に近づいた時、徳川家康が篠山城があまりにも堅固な城となったことに立腹したためと伝えられている。

 初代城主の松平康重は元和5年(1619)に和泉岸和田に移され、以後、松平三家が八代、青山家六代の居城として明治を迎えた。
 明治維新後は、大書院を残してほとんどの建物が取り壊された。取り壊しから免れた大書院も昭和19年(1944)1月16日に焼失したが、2000年4月に再建されている。

 なお、徳川家康が対大阪方を睨んで天下普請させた城は、膳所城を皮切りに、岐阜城を廃して加納城、そして慶長8年には福井城彦根城と徳川政権の象徴である江戸城と続き、慶長12年には東海道の中継地・駿府の地に家康自らの隠居城・駿府城を築かせた。
 駿府城が一段落すると、駿府城と大阪城の中間地点に名古屋城を築かせた後、慶長14年の丹波篠山城を築かせ、翌15年には丹波亀山城を大改造する。
 多くは大阪城攻略目的であるが、篠山城と丹波亀岡城は西国大名を大阪方に通じさせないための城であった。

大書院
大書院
本丸天主台
本丸天主台



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