安芸 広島城
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 城郭の概要
所在地:広島市中区基町
別 名 :鯉城
築 城 :文禄2年(1593 )
初城主:毛利輝元
区 分 :平城
遺 構 :復原天守,堀,石垣,復原櫓
      比高 30m
 現地への案内
交通機関は車を利用
大手門、岡口門周辺の有料駐車場を利用
詳細位置はコチラ 

 駐車場
【訪 城】1997年,2008年8月
【撮 影】2008年8月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り



広島城天守閣
復原された広島城天守閣

 現地の状況
 広島城は広島のほぼ中心部、旧太田川の三角州にあって、堀で囲まれた本丸、二の丸が残り、天守台の東側下には、天守閣が復原された際に移動された礎石が残されている。

 五層五階の天守は白亜の姫路城、および黒い下見板張の松本城岡山城とは少々趣を異にしているが優美な姿は勝るとも劣らない。
しかし、広島城天守は少々のっぽに感じさせる。明治初期に取り壊された天守横の2基の小天守が残されているれば、その印象も随分と違ったものなるのではないか。

 二の丸は馬出曲輪としての形状が良く残されており、“馬出”を理解するには格好の城といえる。

復原された二の丸太鼓櫓
復原された二の丸太鼓櫓


 城郭の歴史
 広島城は、中国地方の覇者毛利元就の死後、天正17年(1589)毛利輝元が代々の居城であった吉田郡山城から広島の地に居城を移すことを決め、太田川の三角州に築城を開始し、文禄2年(1593)に完成した。
 本丸南東隅に天守を置き、南側に二の丸、本丸と二の丸の周囲に三の丸を配した縄張りは、秀吉の建てた聚楽第を真似て設計されたいわれている。

 天守は文禄2年に着工し、慶長4年(1599)に完成。五層五階の大天守と三層三階の小天守2基が多聞櫓で繋がれていた。また、大天守の最上階は白木の柱を出した“真壁造り”であったという。
 当時の広島城には二層櫓が33基、単層櫓が32基、長櫓が4基、多聞櫓が4基、櫓門12棟を数えた。

 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、防長二国に減封された毛利氏は長門国・萩に移り、広島城には旧毛利領の安芸・備後両国を領した福島正則が入城。
福島政則は地域支配あるいは国境の守備のため、三原城など6箇所に支城をおいた。

 元和4年(1618)大洪水で破損をした広島城の改修普請が、元和元年(1615)に幕府が制定した武家諸法度に違反しているとして、正則は信濃川中島の内2万石、越後魚沼郡2万5千国、計4万5千石に減封され、信濃高井野 (長野県上高井郡高山村高井)に転封となった(岩松院)。

 代わって紀伊・和歌山城より浅野長晟が安芸一国と備後八郡42万6,500石の城主として入城し、その後は、明治時代に至るまで12代約250年間にわたって浅野氏の居城となった。

 小天守は明治初年に取り壊され、その後本丸に大本営が置かれたため、昭和20年広島に原爆が投下された。現在の天守閣は昭和32年に復原されたコンクリート造りで、平成6年には二の丸表門(橋御門)、太鼓櫓、多聞櫓が復原された。

二の丸表門の白壁土塀と狭間
二の丸表門の白壁土塀と狭間

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馬出状の二の丸遠景
馬出状の二の丸遠景


二の丸表門
二の丸表門


二の丸太鼓櫓と多聞櫓
二の丸太鼓櫓と多聞櫓

二の丸表門
二の丸表門


天守閣の礎石
天守閣の礎石


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