備後 福山城
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 城郭の概要
所在地:福山市丸之内1丁目
別 名 :久松城,葦陽城
築 城 :元和5年(1615 )
初城主:水野勝成
区 分 :平山城
遺 構 :復原天守,堀,石垣,復原櫓
 現地への案内
交通機関は車を利用
有料駐車場を利用
詳細位置はコチラ 

 駐車場
【訪 城】2008年7月
【撮 影】2008年7月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り



復原された福山城天守閣
復原された福山城天守閣

 現地の状況
 福山城はJR福山駅のホームから手に取るような位置にある。それもそのはず、福山城三の丸を新幹線や在来線が貫いて通っている。

 福山城の天守閣は総漆喰塗りの白壁の五層で、最上階には廻縁と赤い高欄を備え、岡山城や広島城のように黒板張りで無骨な天守と違って、紅をさした女性を思わせる。
 艶っぽいこの福山城の天守は復元された時には、当時のものとは幾つか異なる点があるという。
最も大きな違いは、往時の福山城の天守は北面が黒い総鉄板張りであったことである。これは福山城の北側は城外から本丸までの距離が比較的短かったため、大砲による砲撃戦を考慮して鉄板張りされたという。
しかし、福山城の内堀や外堀はすべて埋め立てられてしまい、天守が鉄板張りされていた理由を今では検証することはできない。
 その他、望楼部の突上戸(雨戸)、窓の左右非対称や大きさ、壁面の海鼠塀部分などが異なっているという。

復原された福山城天守閣
復原された福山城天守閣


 城郭の歴史
 福山城は徳川幕府から西国鎮護の拠点として、安芸国の浅野氏、防長国の毛利氏など豊臣氏縁の勢力を押さえようと、徳川譜代大名の水野勝成が元和5年(1619)に備後10万石の領主として築城した城である。
 徳川幕府は、築城に際し、豊臣政権下の城であった岡山城広島城,三原城,萩城、および岩国城に勝る城を築くために1万2千両の金、380貫目の銀を下賜。更には城大工棟梁・福井正次をはじめとする多くの職人を派遣した。

 水野勝成は芸備二国を領した旧領主福島正則の支城であった神辺城から多くの櫓を移築し、徳川秀忠の命で豊臣政権のシンボルであった伏見城からも伏見櫓や御湯殿、本丸御殿を移築して五層の天守の周囲に配した。
 完成した福山城には伏見櫓をはじめとして本丸には13基の櫓、二の丸、三の丸を合わせると27基の櫓が建ち並んだという。

 その後、城主は水野氏5代、松平氏1代、阿部氏10代と続き廃藩置県を迎え、明治6年(1873)に廃城となって多くの建物が取り壊された。

 昭和20年(1945)8月の空襲により、天守閣と御湯殿は焼失したが、昭和41年(1966)市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓が復原された。なお、現存する伏見櫓、筋鉄御門(すじがねごもん)は、国の重要文化財に指定されている。

 伏見櫓は解体保存修理がおこなわれた時に、梁材に「松の丸東やぐら」の墨書が見つかり、伏見城松の丸にあったことが判明している。


本丸から見た伏見櫓
本丸から見た月見櫓

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本丸から見た鐘櫓
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筋鉄御門(重要文化財)
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伏見櫓
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御台所御門から見る鐘櫓
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