三仏寺城
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【城郭の概要】
所在地:高山市大新町4丁目
別 名 : −
築 城 :保延、永治(1135〜1141)
初城主:平時輔
区 分 :山城
遺 構 :曲輪,土塁
城 域 : −

     県指定史跡


南端の物見台

【現地への案内】
高山市内から三福寺町、老人ホーム向陽園を目当てに。

詳細位置はコチラ 

【駐車場路上駐車
【訪 城】2005年6月
【撮 影】2005年6月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 老人ホーム豊楽園の東約200mほどの墓地から登る。墓地の前に三仏寺城搦手の標識があるが、登城道は墓地を抜けた背後の尾根にあるので注意。
 搦手から約10分ほど登ると主曲輪西側の尾根に出る。幅20〜30mほどの尾根上に曲輪を配した連郭式の山城で、北端に主曲輪、南端に物見台を配置し、その間200mほどは曲輪としても使われていたと考えられるが、ほとんど自然地形に近く、防御施設はない。
 南端の物見台は、幸運なことに下草が綺麗に刈られ、2〜3mの高台に築かれていることや切岸などの状況を掴むことが出来る。物見台からは南方の眺望が開け、元々この城が高山市街を睨んで築かれたことがはっきりと分かる。
 北端の主曲輪内は雑木のため、自由には歩き廻れないが、中央部に櫓台状の土盛りが確認出来る。主曲輪の東側は意図的に尾根筋を削って細くしたような地形が観られ、斜面の谷筋には主曲輪を防御する形で6本の竪堀が配置されている。竪堀は規則正しく並んではいないが、小さな谷一面に掘られた竪堀は防御施設としては非常に有効である。
主曲輪北側の竪堀

 主曲輪から東に延びる支尾根には2条の堀切が確認で、また搦手道側の主曲輪北側斜面に5本の竪堀を掘り、篠脇城等に観られるように竪堀と横堀と繋いでいる点は、三木氏の特徴ある遺構として注目される。
 以上、現在の三仏寺城の遺構からは、北方に対しての防御意識が非常に高く、天正13年に北からの金森長近の侵攻に対して改修されたことは間違いない。

【城郭の歴史】
 保延、永治(1135〜1141)の頃に平時輔が飛騨の守としてこの城に在城した。三代目の景則の頃から飛騨は平家の領国となった。四代目景家は4人の子息と共に京へ上がっていたが、治承5年(1181)基礎義仲の軍に攻められて落城し、景家の室阿紀伊の方と二子景綱の息女鶴の前は行方しれずとなった。義仲勢は飛騨の良馬を求めたと云われる。
 鎌倉時代には地頭の藤原朝高、畑六郎左衛門藤原安高が在城した。
戦国時代には三木直頼の後、天文16年(1547)大八賀郷を押領した平野右衛門が入城した。最後の城主三木直弘は永禄7年(1564)甲斐武田氏に攻められ、自ら城に火を放ち逃げた。以後、三仏寺城は廃城となった。
高山市教育委員会

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