小里城
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【城郭の概要】
所在地:瑞浪市稲津小里字城山
別 名 : −
築 城 :天正2年(1574)
初城主:小里光明
区 分 :山城
遺 構 :石垣
城 域 : −
     県指定史跡


大手道虎口の石垣

【現地への案内】
 国道19号線市原交差点から県道20号線(瑞浪大野瀬線)に入り南下、県道33号線合流手前
【駐車場登城口前に空き地あり、20台程度可
【訪 城】2003年3月
【撮 影】2003年3月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★★
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 小里城は土岐川に流れ込む小里川の上流、小里川の渓谷が形成する隘路地形を押さえる位置にある。
現地の案内板には、天正元年(1574)岩村城を落とされた織田信長が岩村城を攻略するために築城されたとある。地理的には岩村城西方15kmほどの所に位置しているが、地形から見る限り岩村城を拠点として美濃中央部に進出する武田軍を、隘路を利用した小里城で防ごうとする意図が見える。

 安土城築城が開始される前年、天正3年(1576)に築城された織田の城と云うことで、どのような城なのか興味をもって登り始める。すぐに石垣造りの大手門に出る、横矢掛けが意識された縄張りではあるが、虎口は平虎口で少々落胆。しかし、御殿場を中心とした曲輪はそれぞれ面積も広く、きれいに削平されている。
穴蔵形式の変形六角形の天守台
天守台

 整備された山道を約25分登ると本丸に至るが、御殿から本丸下までの間に防御施設は見あたらない。かろうじて人為的に尾根を削り一騎駆けのような地形が観られたが、はたして当時のものか。
 本丸下曲輪には、斜面から崩れ落ちた石垣の石が散乱している。崩れ落ちた石垣にはグリ石(裏込石)は使われていない。
 本丸へ至る道は山が急峻であるため九十九折り状である上、至ることろにある巨石の間を縫うようにつけられている。こうした地形を利用しているためか、本丸虎口には技巧的なものは観られない。

 本丸に着くと穴蔵形式の天守台が目に入る。この天守台高さは3m余りで野面積み技法を用いた石垣造りであるが、築城を急いだためか積み方に荒さを感じる。
しかし、グリ石が使われていることもあって、石垣は "はらみ" もほとんどなく、しっかりと残っている。
 この天守台の特徴は何と云っても、変形の六角形をしていることである。安土城天主台が変形の七角形であり、その前年に築城されていた小里城の天守台が変形の六角形であるということは、信長は安土城築城前年に多角形の天守台構想を持っていたわけであり、これは非常に興味深い。

 天守は北に開口しているが、南側(裏側)には、2折れ(空間なし)の内枡形虎口が残っている。南側が搦手のようである。しかし、この小里城には安土城の2002年度の発掘調査で明らかになったような大手道西側や黒金門における空間をもった内枡形虎口の原形は見られなかった。
 もう一つ興味深いのが、この小里城には堅堀や堀切などの防御施設がないことである。これは安土城にしても同様で、天正3年の時点で織田信長は従来の山城の概念を変える城を築城していたことが伺えた。

 山には至る所に巨石がゴロゴロしており、石垣を造る石材には不自由しなかったことは間違いなく、本丸周囲に散乱する巨石の中には
分割途中で放置された石材
矢穴があき、分割途中の石を見ることが出来る。
まさに、築城途中であったことが窺えるが、天正3年にこうした割石を使っていたのかどうか、少々疑問の残る所である。

【2003年11月9日追記】
 とある筋から、この小里城の天守台石垣が「昭和29年に積み直されたとの証言が出てきている」との情報を頂き、ビックリしています。(^^)
どこから積み直されたものか、裏付けを取るためには、一度解体してみないと分からず、調査する計画があるとか無いとか。
さて、どうなることやら〜。
 こんなことを聞いた後で、よく考えてみると安土城にほとんど矢穴のある石はほとんどありません。でも何カ所かで矢穴のある石を見ることがあります。滋賀県文化財保護協会の木戸氏によると「安土城で観られる矢穴の跡は昭和15年に修理した時の石だろう・・・・・」と。
まあー、考えれば考えるほど不可解なことが出てきます。(^^)

 小里城の天守台が積み直されたものかどうかを調べて欲しい気もしますが、調査するとなると、信長時代に積まれた石垣に手を加えてしまうことになり、これ又問題であります。さて、どうしたものでしょう。皆さんはどのように考えられますか。(^^)

【城郭の歴史】
 小里記によると、土岐氏の流れの小里出羽守光忠が天文3年(1534)に築城し以降代々の居城となったと云うもので城山の北西の麓がそれです。
光忠は元亀元年(1572)武田勢の美濃侵入に際し、明智の遠山景行らと共に織田方となって12月の上村合戦に戦死し家督は光明が継ぎました。
その翌年の天正元年には武田方の秋山晴近らによって岩村城は侵略され武田勢の美濃侵入の拠点となりました。このことから天正3年、織田信長は岩村城を奪回しようとして小里・神篦(鶴ケ城)両城を固めました。
命を受けた光明らによって小里城山城は大規模に広げられました、一方岩村城はこの工事途中の12月、信忠を大将とする織田軍の攻撃で落城したので小里城の改修と一之木戸の石垣や本丸楼改築の途中で中止されました。
 こうしたことから天下統一に力を注いだ信長の天下威武の跡である「小里城山城跡」として県の史跡に指定されています。
現地案内板より

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