明智長山城
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【城郭の概要】
所在地:可児市瀬田地内
別 名 : −
築 城 :13世紀
初城主:土岐頼基
区 分 :平山城
遺 構 :横堀
城 域 : −

市指定史跡

二の曲輪
二の曲輪

【現地への案内】
国道21号線高倉口を南入る、県道381号線を南下、瀬田地区
詳細はコチラ 
【駐車場光蓮寺駐車場に約50台
【訪 城】2003年4月
【撮 影】2003年4月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★☆☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 明智長山城は丘陵地が平地に落ち込む、丘陵地の先端に築かれ、北側に大手を開き、比高差のある丘陵地と浸食谷の自然地形を利用した平山城である。
 麓の光蓮寺東側の桔梗坂が大手道、また光蓮寺西側の見張り台を経て二の曲輪に至るのが西大手道と称されている。
 二の曲輪、および三の曲輪は、なだらかな丘陵地形を利用しているため、非常に広いが、削平は不完全な上、防御施設もほとんどなく(東側の住宅地との境界斜面に堀切が確認できる)、城と云った形態をなしていない。防御施設は宅地化によって消滅してしまったのかもしれない。なかでも、西側の見張り台とそれに伴う腰曲輪の一帯が、もっとも城郭らしい造りを見せている。
二の曲輪に「本丸跡」の標識が建てられているが、縄張り図によると、一の曲輪(本丸)は二の曲輪の東にあり、長山配水池とNTTのアンテナの建てられている一画であるが、こちらにも遺構の確認は出来なかった。
 明智長山城の背後、広眺ヶ丘からは直接二の曲輪まで、車で乗り付けることが出来る。
 明智長山城は明智城(明智町)とともに、明智光秀出生の城とされ、「光秀出生地論争」が起きているが、どちらも決定的な確証がなく結論は出されていない。

【城郭の歴史】
 可児市は戦国時代の悲運の武将「明智光秀」の誕生の地である。康永元年(1345)に美濃源氏、土岐下野守頼兼が名字を「明智」と改めて、初代明智家棟梁となり、明智荘瀬田の統治に明智城を築城した。
 以来、およそ215年間、ここの山城を構えていたが、弘治2年(1565)に当時の美濃国の支配者、斉藤道三とその子義龍の争いに巻き込まれ、義龍に攻められて落城。最後の城主であった光秀は城の脱出に成功して明智家を再興したが、ここへは戻らず彼の死後も、再びここの築城されることはなく明治維新を迎えた。
 城は自然の地形をうまく利用した典型的な中世の山城で、この山の中央主峰、標高175mの頂上に本丸を築き、ここを中心として、幾つかの別の峯に小城塞、見張り台、城郭施設などを配置させてあったと考えられる。
 居館跡には「光秀産湯の井戸」と伝承されている井戸があり、当時使用されていた土岐破片が出土している。また、出丸付近には落城の際の戦没者を葬った「七ツ塚」がある。

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