毛利秀元陣
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【城郭の概要】
所在地:不破郡垂井町宮代
別 名 : −
築 城 :慶長5年(1600)
初城主:毛利秀元
区 分 :山城
遺 構 :横堀,土橋,土塁
城 域 :100m×50m
     標高 404m
     比高 360m



堀と土橋
主曲輪西側の堀と土橋

【現地への案内】
 国道21号線垂井町から南宮大社へ
詳細はコチラ 

【駐車場南宮大社駐車場を利用
【訪 城】2005年3月
【撮 影】2005年3月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 毛利秀元陣は関ヶ原の戦いに際して、西軍として参戦した毛利軍の総大将毛利秀元が陣を構えた所で、南宮大社の背後、南宮山の支峰である標高404mの山の山頂付近に築かれている。麓の南宮大社から南宮山ハイキングコースに入り、安国寺恵瓊陣を経て山道を登ること約1時間で着く。
 山頂の饅頭形の平場に主曲輪(約40m×20m)を置き、西側虎口は4〜5mの比高差を利用して堀切(横堀と云う表現の方が適しているかもしれない)に土橋を配し、上方の土塁上からの迎撃を可能にしている。曲輪の東側にも同様の思想で造られた虎口があり、簡単な造りながらも工夫が見られる。
毛利秀元陣

 主曲輪から大垣方面の眺望は素晴らしく、比高360m、麓から約1時間かかるという距離的条件を除けば、西軍の主力毛利軍が陣を構えるには相応しい場所である。それも戦いが西軍の思惑通り大垣城を中心に行われたとすればの話である。実際の戦いは、徳川軍が石田三成が立て籠もる大垣城を無視して、中山道と牧田川沿いの街道を南下したことにより、急きょ関ヶ原に移ってしまう。
 その肝心の関ヶ原の戦場は、この秀元陣から麓の南宮大社に至るまでの毛利軍の陣地からは、南宮山、および朝倉山に隠れて見ることが出来ない。これは西軍として出陣していながらも、若干19歳の毛利秀元を戦目付として支える吉川広家が、最後まで東軍への加担を主張していたために、徳川軍の動きに対応できていなかったことによるものである。
 それにしても西軍の総大将・輝元の名代である毛利秀元の陣から、戦場となった関ヶ原が見えないという事実は、西軍から東軍への寝返りを多く出した関ヶ原の戦いそのものを象徴しているように感じた。
 また、麓のから1時間もかかる山の山頂に陣取った毛利軍は本気で戦う気があったのだろうかという疑問も感じた。西軍を寝返った松尾山城の小早川秀秋陣も麓から約1時間の位置にあり、仮に戦いが大垣城を中心に行われていたとしたら、小早川秀秋の役を演じていたのは毛利秀元になっていたかも知れない。

  関ヶ原の戦いの配置図

【城郭の歴史】
 中国百二十万石の太守である毛利輝元の養子。関ヶ原の戦いでは西軍に参戦した。輝元名代で南宮山に陣を構えましたが、東軍に内通した一族の吉川広家に押し止められ、合戦に参戦出来ませんでした。
 その際、参退に窮した秀元が麾下に兵糧を使う真似をさせた話は「宰相殿のから弁当」として知られています。その後、大阪城に戻った秀元は籠城して徹底抗戦することを主張しましたが聞き入れられず、毛利家は大幅に減封されてしまいました。
垂井町教育委員会

講演要旨 街道を駆け抜けた戦国武将たち関ヶ原の合戦の講演要旨

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