美濃久々利城(くくりじょう)
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【城郭の概要】
所在地:可児郡可児町久々利
別 名 : −
築 城 :南北朝期(14世紀前半か)
初城主:土岐頼重
区 分 :山城
遺 構 :土塁,堀切
城 域 : −
     県指定史跡

曲輪
三の曲輪から見た二の曲輪と一の曲輪

【現地への案内】
 県道84号線久々利地区、可児郷土資料館北東
詳細はコチラ 

【駐車場路上駐車、郷土資料館にも駐車可
【訪 城】2003年4月
【撮 影】2003年4月



評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★★

 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 久々利城は御嵩町から多治見市に跨る山塊が久々利川によって切れ込み、久々利川沿いの西側だけが開ける地形に張り出した尾根の中腹に築かれて、その尾根斜面は大手を開いた南西側を除いて非常に急峻で、尾根の南麓を久々利川が流れる天然の要害地形にある。


 こうした要害地形の尾根筋に、大まかには三の曲輪から一の曲まで、三つの曲輪を連続的に配置し、一の曲輪の背後に四の曲輪(縄張り図には曲輪名称がかかれていないので、ここでは便宜上「四の曲輪」としておく)と東に対する見張り台と思われる小曲輪を配した連郭式の山城である。

 この久々利城は非常に巧みな縄張りで、防御する側にとっては、まさに理に適った造りであるが、紹介する私の表現力で理解していただけるかどうか、甚だ疑問である。
興味を持たれた方は実際に現地へ行って確認していただきたい。
縄張り図

 県道84号線に面した大手道を登ると、5分足らずで前面に曲輪を配した虎口に着く。
虎口前面の削平地は北側に延び、三の曲輪下の空堀と土塁前面の帯曲輪へと続き、虎口および三の曲輪防御の前衛とされる。

 ここの空堀には、直行する形で2本の堅堀が配されており、特徴的である。
 虎口は平虎口であるが、右手の土塁は大手道に対し直行し、左手土塁は大手道に平行する形で、左手土塁は武者隠し的な役割を果たしている。また、この土塁裏には横堀を配し複雑な構造を見せている。

 虎口を入ると、正面には高さ2mほどの櫓台があり、この櫓台からは虎口を正面に見下ろす形となり、虎口防御を堅固なものにしている。虎口防御を兼ねた曲輪を経て、三の曲輪を巻くようにして左手上方の三の曲輪に至る。三の曲輪からは、虎口および櫓台のある曲輪を眼下に置くことが出来る。
 この三の曲輪は虎口防御と、攻め上がってくる敵に対し、上方からの横矢が掛かる位置にあり、まさに理想的な曲輪配置で、三の曲輪が大手口防御の司令塔な役割を担っていることは明らかである。

 以後、二の曲輪,一の曲輪へと至る通路はいずれも、曲輪右下を巻くようにしてつけられているが、どちらも左手上方から横矢が掛かるようになっている。
 また、二の曲輪からは三の曲輪を、また一の曲輪からは三の曲輪,二の曲輪を見下ろす形で、それぞれの曲輪が有機的な繋がりの中で機能するように配置されており、見事な縄張りである。

 一の曲輪南側には曲輪状の平地がある。孟宗竹の林で相当荒れているため、入らなかったが、曲輪と云うよりも四の曲輪への切岸有効高さを稼ぐための堀とみている。(曲輪だったのかもしれない)この堀によって形成された「一騎駆け」を経て、四の曲輪に至る。

 天正11年に森長可によって落城した当時の遺構が残っていると考えられ、天正11年当時の美濃・土岐氏の築城技術がこの城では見られる。
 こうした遺構を同時期の賤ヶ岳の戦い(天正11年)で築かれた滋賀県余呉町の玄蕃尾城東野山砦などの遺構と較べると非常に面白い。

【城郭の歴史】
  土岐三河守悪五郎の築城と云われているが築城年代は不詳である。遺構は山腹より数段の曲輪を断続的に設け、土塁・空堀などで要所を備えた室町期の典型的な中世山城で、現在もその遺構がよく残されている。

 土岐三河守悪五郎は、三代美濃守守護土岐頼康の弟康貞を初代とし、代々土岐三河守悪五郎を襲名、天正11年(1583)秀吉と結んだ金山城城主。森長可により落城するまで、数台二百余年続き、三千貫文を領していたようである。
可児市教育委員会

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