革手城
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【城郭の概要】
所在地:岐阜市光樹町
別 名 :川手城
築 城 : −
初城主: −
区 分 :平城
遺 構 : −
城 域 : −
     標高 10m



済美女子高校の一画にたてられた城址碑

【現地への案内】
国道21号線と国道156号線の交差点を北東に約1km
詳細はコチラ 

【駐車場路上駐車
【訪 城】2003年7月
【撮 影】2003年7月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★☆☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★☆☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 西に荒田川、東に境川が流れ、要害の地であったことが窺われる。
現在では済美女子高校の一画に石碑と案内板が建つだけで、城址であったことを示す遺構は残っていない。周辺に東屋敷,西屋敷,馬場等の地名が残る。

【城郭の歴史】
  美濃源氏は平安末期から鎌倉時代にかけて、美濃各地に斗着下清和源氏の一族である。中でも光衡は源頼朝に従って軍功を挙げ、東美濃の地、土岐に土着し、土岐氏と名を改め、瑞浪市一日市場に居住し、屋敷に源氏の守り神の八幡神社を祭る。そして美濃国守護職(1189)となって鎌倉幕府と共に栄え土岐源氏の祖となった。

 光衡の子光行は源実朝に仕え池田新九郎追討の軍功(1261)をあげ左衛門尉となる。土岐市浅野に住み東美濃を統一した。その子光定は土岐惣領を継ぎ土岐市浅野の住み。執権北条貞時の娘を妻にして隠岐守となり土岐市隆益の基となる。

 土岐中興の祖となる土岐頼貞は光定の子、母は北条貞時の女で執権北条高時の兄妹、土岐惣領を継いだ頼貞は文武に秀で人物豊かで、その子頼清や頼遠と共に元弘の変(1333)に後醍醐天皇の令旨に応じ足利尊氏と共に鎌倉幕府打倒に功を挙げた。その後、建武の新政の不満に兵を挙げた足利尊氏に従い数多くの軍功「土岐絶えば幕府(鎌倉)絶ゆべし」、「諸家の頭」と信任を深くし、西美濃をも治めて美濃国守護職の地位を築き、現瑞浪市一日市場,現土岐市大富にその居館を構え、11代続く守護職の初代となる。
 第2代守護職土岐頼遠は父頼貞と共に足利尊氏に従って数々の軍功、現土岐市大富に住みしが、辺地なればと現土岐市南長森に長森城を築き居住。頼遠は功募りて驕慢、1342年持明院(後光厳上皇)に無礼を働き断罪される。
 第3代守護職頼康は、土岐頼遠の後を継いで土岐惣領となる。足利尊氏の命により信州(信濃),予州(伊予)の平定、その軍功により美濃,尾張,伊勢の3カ国の守護職となる。長森城は所狭きをもって1353年6月、現岐阜市下川手に革手城を築きこれに移った。別名革手府。土岐源氏の名声と実力は最高に至った。

 この城は旧木曽川と現荒田川を改修し天然の地の利を生かした広大な城地で、七堂伽藍をもつ霊薬山正法寺・源氏の守護神八幡神社をはじめ神社仏閣、数多くの平屋建築というより御殿風の建物だったと推察される。以後革手城は歴代の守護職の居城となる。
現地案内板より

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