美濃 金山城(兼山城)
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 城郭の概要
所在地:可児市兼山
別 名 :鳥峰城
築 城 :天文年間
初城主:斉藤氏
区 分 :山城
遺 構 :石垣,土塁,竪堀,井戸
城 域 :220m×160m
     標高 267m
     比高 160m

県指定史跡
主曲輪と石垣
主曲輪と石垣

 現地への案内

国道21号線高倉口から県道351号線に入り兼山町役場裏
詳細位置はコチラ 


【駐車場専用駐車場麓に約20台
【訪 城】2003年5月
【撮 影】2003年5月


評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)
体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

 現地の状況
 車で山頂付近まで登ることができる、駐車場から主曲輪まで約200m。
城内のあちらコチラに見られる石垣には、ぐり石(裏ごめ石)が入れられ、近世城郭における石積み手法が用いられている。

 また、石垣造りの広い枡形虎口は、近世城郭の虎口そのもである。反面、切岸はほとんどが中世山城の姿のままである。
 中世城郭から近世城郭へと移り変わる過度期の城として、個人的には非常に興味を持った。
 見所は、枡形虎口はいうまでもないが、出丸の南側斜面に築かれた高さ4m、長さが40mにもおよぶ石垣であろう。
大手枡形虎口
大手枡形虎口

 城郭の歴史
 室町時代末期、天文6年(1537)斉藤道三の命を受け、その猶子斉藤大納言正義はこの山頂(標高273m)に築城、鳥ヶ峰城と称し、中井戸の庄の地名を金山村と改めた。

 豪勇無双近隣に武威を振るった斉藤氏が同17年(1548)久々利城主土岐三河守に討たれた、正義時に33歳。
 時移り、永禄8年(1565)織田信長は東美濃経略の拠点として森三左衛門可成を封じ、金山城主7万5千石とした。以来、森可成・長可。忠政父子三代の居城として戦国波乱の歴史を彩った。則ち、可成は元亀元年(1570)9月21日近江宇佐山城で浅井・朝倉軍と戦い討ち死に(47歳)、これより先、長男可隆も4月25日朝倉攻めに初陣。敦賀手筒山で討ち死にしている(19歳)

 天正10年(1582)3月9日には甲州武田征伐の途中、信長は金山城に一泊している。同年6月2日未明、明智光秀謀反による本能寺の変で信長(49歳)とともに討ち死にした可成の三男欄丸長定(岩村城城主5万石、18歳)四男坊丸長隆(17歳)五男力丸長氏(16歳)の三兄弟はともに金山城で出生し信長の側近、近習として仕えた。

 三代城主六男忠政、金山城で出生、長可の跡目を継ぎ、15歳で7万石を領し豊臣秀吉に仕えた。金山城の整備拡充を手がけたが九州、小田原等に転戦、知謀の将と重んぜられた。
 慶長5年(1600)徳川家康の命により、信州海津城(13万7千5百石)に移封、金山村および金山城は犬山城城主石川備前守光吉の所領となる。天守、諸櫓等一切を取り壊し、木曽川を下って犬山城の増築・修復に使われたという。

 忠政は慶長8年(1603)美作国18万6千5百石に国替えとなり、以後13年かけて津山城を完成、現在の岡山県津山市の基をつくった。
 斉藤,森両氏を通じ、在城僅か40数年であったが、戦国動乱の世に名将として武威発揚もめざましい一方で城郭整備「六斉市」をはじめとする商業振興など城下町つくりにも力を尽くした。
−金山記大成による− 兼山町教育委員会 現地案内板より

 なお、森三左衛門可成の墓は聖衆来迎寺(滋賀県大津市)の境内にある。
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