菩提山城
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【城郭の概要】
所在地:不破郡垂井町岩手
別 名 :菩提城,菩提寺城,岩手陣屋
築 城 :永禄2年(1559)または天文15年(1546)
初城主:竹中重元
区 分 :山城
遺 構 :土塁,堀切・竪堀,横堀
城 域 :216m×36m
     標高 402m
     比高 300m
空堀
山上の空堀

【現地への案内】
岩手城の西約1kmの白山神社から
詳細位置はコチラ 


【駐車場白山神社登り内の空地を利用
【訪 城】2001年7月,2003年3月
【撮 影】2001年7月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★★
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 菩提山城は養老山脈と伊吹山塊が隘路を形成する関ヶ原の東、伊吹山系南端の菩提山山頂に築かれ、美濃平野が扇状に広がる要の位置にある。
元々は麓の岩手城を築いた竹中氏の詰め城である。麓に岩手城を築き、伊吹の山塊を背にして詰めの城としている点は、まさに中世山城の原点を思わせるような配置である。菩提山城へは白山神社から続く山道を登ると、約40分ほどで着く。山頂の主曲輪を中心に南北に延びる尾根上に約400mほどにわたって築城されており、中世山城としては規模的にも大きな城である。
南尾根の堀切
堀切

 この城には幾つかの特徴がある。ひとつは、尾根を堀切り、曲輪周囲には堅堀を配している等、堀切と堅堀を防御パーツとして使っている点は他の山城変わりはない。しかし、堀切と堅堀を巧みに曲輪周囲に配置し、各曲輪が担う目的を明確にしている点は特筆される。
 二つ目は、南北100m、東西30mほどの主曲輪の南側に、横堀を2本配し馬出状の曲輪を作為的に創り出して虎口防御を高めている点である。
山頂の平坦部が広く、地形を利用した虎口を造れなかったためか、あるいは広すぎる主曲輪をコンパクトにまとめるためかは定かでないが、山頂地形に依存しない城造りをしている点が注目される。
南尾根の堀切と竪堀の交点

 もうひとつ興味のあるのは、南に続く尾根はこの城の搦手と考えられ、岩手峠、あるいは関ヶ原につながっていたのではないかと考えられるが、この尾根の南端城域を示す堀切には左右に堅堀を配し、小さな堅堀と堀切をドッキングさせている点である。非常に珍しいものであるが、堅堀と堀切の堀底の深さが違うことから、元々計画的に掘られたものではなく、当初は堅堀が掘られていた斜面の切岸角度を急にするため、あるいは切岸の有効高さを稼ぐために、後年に堀切が掘られた結果、いかにもドッキングしたような形状になったものと私は判断している。
これによく似た遺構が美濃・明智城に観られるが、明智城のものは菩提山城のものとは違い意図も明確なうえ、規模も異なる。

 最後に、主曲輪西側の帯曲輪北側に二つの丘状の曲輪らしきものがある。位置的には北西尾根の防御を狙ってのことと思われるが、いったい何の目的で造られたものなのか結論を持たない。この方面の防御が薄いだけに気になる。
 この菩提山城は全体的に非常に完成された縄張りを持つ城で、堀切,竪堀など個々の堀も深く、近江,西美濃でもこれだけの城はなかなか見ることがない。
こうした遺構は、主曲輪の虎口形態からは織豊系の築城技術が完成の域に近づいた(完成された)天正期以後と考えられる。
私なりにもう少し絞って時代を特定するとすれば、この地域の持つ軍事的な意味合いから、天正10年(1582)の清洲会議(賤ヶ岳の戦いを想定して)以後に改修されたものではないかと考えるが、いつ、誰の手によって改修されたものか非常に興味のあるところである。

【2003年3月30日再訪】
 菩提山城から続く南尾根が岩手峠に至る途中に大堀切があると、朝日新聞社発行 「フィールドワーク関ヶ原合戦」(藤井尚夫著)に書かれていることを検証に友人達7人と、岩手峠に至る林道から山中に入った。カーナビの威力は最大限発揮され、狙った尾根に出たが、同誌に書かれているような大堀切は姿もなく、あるのは何処にでもある両脇が土塁状に高くなった山道だけであった。ここに来る前に麓の秋葉神社にも立ち寄ったが、陣城’の気配は感じられなかった。
 以上はあくまでも私の見解であるが、同行した6人に友人達もおそらく同意見ではなかったかと思う。

【城郭の歴史】
 別名を岩手城とも云い、伊吹山を背にして標高402m、西は明神山を経て伊吹山系に続き、山頂の自然を巧みに利用し七つの曲輪と十指に余る小削平地、二つの大堀切、七条の竪堀および空堀からなる大規模なものである。
 千石乱世の頃、岩手氏(岩手弾正佐衛門頼重)はこの菩提山に本拠地をおき、近江と美濃の間に勢力を張っていた。
永禄元年(1558)竹中遠江守重元は現在の揖斐郡大野町にいたが、岩手弾正を攻略し、翌2年(1559)ここに城を築き、現在の大垣市の福田、長松と岩手付近一帯を領し6千石の領主となった。
 戦国時代の軍師として知られた竹中半兵衛重治公は重元の子で、この城に住んでいたが、永禄7年(1565)には岐阜城を攻略し、更に織田信長、豊臣秀吉に使え重用されたが天正7年(1579)播州三木(現在の兵庫県三木市)の陣中で病死し、この世を去った。
現地案内板より

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